彼の一番になれない



彼はいつも俺を驚かせてくれる。

いい意味でも、悪い意味でも。


『やあ、俺はヴィクトル・ニキフォロフ。君の名前は?』


初めて出会ったあの瞳を覚えている。黒く長い睫毛に縁どられたコバルトブルーは、人間に触れたことのない不可侵の海。冴え冴えとした青を闇が覆い、魚の一匹すら存在しえないほどに澄み切っている深海の色。誰も彼の瞳には住めない。誰も、彼の心の中には踏み込めない。そんな絶望にも似た陶然を、昔の俺は意味不明な感情として漠然と胸の奥に仕舞っていた。


『初めまして、私はニコライ・フェルツマン』


生気の薄い雰囲気をベールの如く纏って、彼は繊細な手を俺に伸ばす。ヤコフの弟か従弟の孫って聞いたけれど、ヤコフと似ているところなんてまったくない。ファミリーネームだけが同じで、見出せる繋がりはそこだけだ。けれどその繋がりがあったからこそ俺は彼と出会えたんだと思うと、ヤコフにありがとうを言いたくなった。


『会えて嬉しいよ、ヴィクトル』


柔らかそうな薄紅の唇がVの発音のために歯を立てられる。その瞬間、何故だかとても残酷な仕打ちを彼に強いてしまったような罪悪感が降って湧いた。

婚約者がいながら内気で繊細なローラに惹かれ唇を奪ってしまったジャックのような。あるいは父王を誘惑して手に入れた愛しいヨカナーンの首に口づけるサロメのような。酷い罪悪感と昏い愉悦。たった一度名前を呼ばれただけで俺の心は溢れ出さんばかりの感情で満たされた。それだけ彼の容姿は神がかっていて、俺は一目で彼の顔を気に入ってしまった。彼が息を吸って吐いて声を出して目を開け閉めする。たったそれだけのことが神秘的で、もしも俺が敬虔な神のしもべであったなら膝をついてお祈りを捧げていたかもしれない。

いつかその顔で俺に笑いかけてくれますように。

薄らと淡い表情の彼と握手しながら、内心でポツリと呟いた。俺が二十歳で、ニコライが十四歳。シニアデビューしてから初めてのスランプに戸惑う俺と、大会に出てすらいない無名の彼。お互いがまだ名の知れ渡っていない時代に俺たちは出会った。

そうしてすぐに、俺たちは大きく名を売ることになる。

それから一年もしない内に俺はスランプを克服してシニアのGPFで金メダルを、そしてニコライはジュニアのGPFで金メダルを獲った。次の年もそうだった。シニアでもジュニアでもロシアがメダルを獲ったことは結構大きな反響があったらしい。けれど俺は、滅多に会えなくなった彼がどんな人間に成長しようとしているのか、って興味で胸がいっぱいだった。何も知らない無垢な顔で俺を見上げてきた彼が、いったいどれだけ変わったのかって。

ワクワクした気持ちをポーカーフェイスの下に隠して。久しぶりに会ったニコライは、美しさに関してだけはビックリするくらい情熱的だった。


『君は中身まで美しく在りたいんじゃないのかい?』


正直に言うと、嫉妬した。

美しさに対してだけ見せる燃えるような執着心に。もしもそれが誰かに対して向けられたものだとしたらすんなり納得できたのに、彼がジッと見つめ続けたのは自分を磨くことだけだった。より美しく、もっと美しくあろうとする彼は、俺になんか一生見向きもしないんじゃないかという焦燥が生まれた。

だからこれはちょっとした意地悪。美しさを我武者羅に求め続ける彼の姿を、暗に美しくないと揶揄した。彼が美しくなかったことなんて一度もなかったのにね。

その時の俺はまだまだ若かったから。自分がどれだけ彼に対して酷いことを言ったのか理解できていなかった。


『ヴィクトルはっ、わたしのこと、み、醜いとっ、思っているのッ!?』


そんなわけないじゃないか!

本当はすぐにでも叫んでしまいたかった。でもできなかった。青い瞳から深海の水が溢れ出す、その光景をずっと見つめていたかった。今その瞬間を切り取って大事に大事に仕舞っておきたかった。あんなにも大人しかった彼が激昂したこと。美しい彼が醜さを恐れる道理なんて何もない。ありえていいわけがない。

ああ、唇を噛まないで。鼻水垂れてるよ。そんなに泣いたら目が腫れちゃう。苦しそうな声を出さないで。俺が悲しくなるじゃないか。ああ、こんなはずじゃない。こんなの知らない。なんで君は、君って人間は、こんな時に人間味を出してくるんだ。俺に罪悪感なんて苦悩を与えるんだ。こんなにも素直に感情を出されたら、感情を向けられたら……そんな隙を見せて、俺に的外れの罪悪感なんて持っちゃって。ニコライがそんな風に俺に甘いから、だから俺は、


『このまま君と一緒にいたら、ユーリが駄目になるからだよ』


癖になっちゃったじゃないか。



***



冷たい氷の世界が透き通ったボーイソプラノで満たされる。リンクの中心に佇む彼は祈るように手を合わせた。

いつからだろう。彼が天使じゃなくて人間になったのは。いいや、そもそも彼は最初から人間だった。天使に見えたのは彼が分かりやすい感情を誰にもアピールしていなかったせいだ。実際に彼は自我を持った人間だったし、人間らしさを見せる相手も機会もなかっただけ。彼を天使にしていたのは周りの人間の方だったんだ。

ユリオが俺より簡単に気付いたのはちょっと悔しいけどね。

引退してもなおニコライの演技力は衰えない。毎日毎日どこをどうすればより美しく見えるか追求し続けた彼の集大成がリンクの上に広がっていた。凡庸なダブルもギリギリ回転が足りたトリプルも、軸のブレたスピンもヘロヘロのステップシークエンスも。どれだけ危なっかしくたって最後までノーミスで滑り切る。一週間もない短い期間、ユリオが滑っているのを見ただけで完コピして見せたんだ。現役選手だって難しいだろうに、そういうところがズルいと思う。

ユリオが得意なクワドサルコウだけはパーフェクトに仕上げてくるところとか、本当に。

それだけの才能がありながら、俺と勝負してくれなかった彼が憎い。俺との勝負を差し置いて誰かのためだけの滑る彼が、もっと憎い。


「ユリオ、怒ってる?」
「ユリオじゃねえ」


脱衣所でフルーツ牛乳を一気飲みしたユリオが睨んでくる。勇利の家のお風呂は相変わらずプールみたいに広くて気持ち良い。お風呂上がりの裸のまま、見下ろした先には濡れてしっとり色味を増した金髪。細くて柔くて軽い、あの頃のニコライみたいに刹那的な若さを惜しげもなく晒して。怖い顔をしているのに口の周りについている牛乳の跡がチャーミングだ。


「本当に、アイツとは何もなかったんだな」
「まさか! 一晩同じ部屋で過ごして何もないわけないだろ?」
「コロス」
「HAHAHA!! ジョークだよ」
「マジトーンで言ってんじゃねーよ」


そういうユリオもマジトーンで言ったよね。

四年ですっかりニコライに毒された弟分にちょっとだけ呆れた。そういえば俺が初めて彼に会った時よりもずっと幼い年で出会って一緒に住んでいるんだ。そりゃあ、俺より重症になるのも仕方ない。

可哀想なユリオ。俺以上に深みまで嵌って、もう元には戻れない。

ハセツに来てから、ニコライはちょっとおかしい。いつもの柔らかそうでいて結構ドライなあの性格がほどけて、今はつつけばつついた分だけ踏み込ませてくれる。心を開いたというよりは、無防備になったって感じだ。それはこの六年つついてつついてつつきまくった俺としては何だか面白くない。こんな風に一喜一憂して彼の関心を惹こうと必死な俺は、まるでヨカナーンに恋するサロメのようだ。

ああ、でも。


「俺の愛はスケートに捧げているから、ニコライにはあげられないよ」


ヨカナーンの首ニコライに狂って殺されるなんて、俺は嫌だなあ。


「それにニコライはスケートを愛してはいない。たとえ俺を愛してくれたとしても、スケートを愛していない彼なんてこっちから願い下げだよ」


結局、最初から彼にとってのスケートは彼の美しさを引き立たせる道具でしかなかった。スケーターのニコライ・フェルツマンを俺は一生愛することはないだろう。人間のニコライ・フェルツマンはこんなにも好ましいのに。不思議だね。

毎日毎日、飽きずにガラスの動物園を眺めていたローラは、翼が砕けてしまったガラスのペガサスを見て微笑んだ。『お前も他の馬と同じになれて良かったね』ニコライはローラのように繊細な人だけれど、きっとそのセリフを言うのは俺だ。氷の世界を捨てて、それでもそばで眺め続ける彼に微笑んでそっと手を差し出す。決して氷の世界には連れ戻してやらないけれど、いつまでもこの美しい世界を彼に見せ続ける。どんなに楽しく、嬉しく、辛く、苦しく、愛おしいかを思い出させて、それでも彼を踏み込ませない。一番そばで見ているのにもう戻れないことをずっと思い知っていてほしい。俺に酷いことをされているって分かっていても、今みたいにずっと笑っていてほしい。

それが俺の復讐で、人間ニコライ・フェルツマンへの変わらない愛だ。


「そうだ、ニコライが引退した理由、教えてあげようか?」
「ハア!? 知ってんのか!?」
「もちろん」


ユリオが牛乳ビンをベンチに叩きつけるように置いた。あまりにも必死な顔をするものだから、思わずブッと吹き出しちゃった。今までガンを飛ばしてた緑色が丸くなって、まるで威嚇してた猫が水に落とされて飛び上がったみたいだったから。面白すぎて肩の震えが止まらない。ああ、ごめんユリオ。怒らないで。ちゃんと教えてあげるから。

やっと笑いが収まった頃、気を取り直して口を開こうとした。ら、ユリオはムスッとした顔でそっぽを向いた。


「…………いい。自分で聞き出す」


意地っぱり。


「そう、ユリオらしいね」
「ユリオじゃねえ」
「はいはい」
「俺は諦めてねえからな」


何を、なんて野暮なことは聞かない。だって知っているから。

ユリオがこの数年、ずっと持ち続けた愛を。ニコライがリンクに戻って来ることを、ユリオはまだ信じている。


「じじい、アイツは俺のだ」


ああ、若いなあ。


『ニコライ! 酷いじゃないか、俺はまだ君と一緒に滑れてないのに。ねえ、お願いだよ、引退しないで。まだやれる、君はもっと滑れるよ。もっともっと、美しくなれる。だって君は、』


ハグした拍子に香った汗の匂いも、頬をかすった髪の感触も、手のひらで感じた背中の固さも、薄い衣装越しに伝わる心音も。全部嫌になるほど簡単に思い出せる。


『ごめんね、ヴィクトル』


彼の唇がのために歯を立てられる、その光景に罪悪感はもう抱かなかった。


『私、もう無理だ』


静かに俺の肩に手を置いて、そっと離された体。渇いた睫毛の奥の深海は、水族館に収められたフェイクの水槽みたいに無感動で、どんな生き物も住めないような退廃を映していた。

ニコライは言う。GPFに行く前の予選で演じて見せたFSが彼にとっての最高潮だったんだと。冒頭のステップの後に場面転換として入れた、たった一回のクワド以外は全てトリプルとダブルで構成された穏やかな天使。それが彼にとっては至高だった。GPFで世界を感動の渦に飲み込んだあのFSは彼にとっては至高じゃなかった。美しくはあるけれど、一番美しいわけではない、って。


『クワドをたくさん飛べばもっと美しくなると思った。点数が高ければもっと、世界で一番になれば、一番美しいんだって。そのためだったら自分も他人も犠牲にできた。でも、世界が一番だって認めてくれたスケートを私は美しいって思えなかった。どう説明すればいいか、分からないけれど。言葉が見つからないけれど、たぶん。私の“美しい”の基準がブレてしまったのが、怖い。世界と私の“美しい”が違うなら、私は何を信じればいいの。私はスケートを何のために滑ればいい? ねえ、怖いよ、ヴィクトル。こんな不確かなことにヤコフや、みんなを巻き込んで好き勝手やってたなんて私、全然、気付かなかった。腰が痛い、膝も何だかガクガクするよ。何のために、こんな、怖いこと……ねえ、ヴィクトル。教えて、本当のことを言って』

『私のこと、美しいと思う?』


あのニコライを知らないから、そんな無謀なことが言えるんだ。


「さっさと諦めちゃえば楽なのに」


まあ、挫折を知るのも若さの特権だよね。

濡れたままの髪も乾かさず出ていったユリオが、天使のように眩しかった。

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