殻の中で窒息



「おはよう」
「…………」


深く何も考えずに前の扉から入って、後ろから入らなかったことを後悔した。あまり会いたくない人にピンポイントで挨拶をされるとは思わなかったのだ。早めに来た教室には人がまばらで、この時間なら人目も気にせず席まで行けると思ったのに。

ちょうど前の席に座る男の子。昨日の朝に話しかけてきた尻尾の人だ。じっと、こちらを伺う目が鬱陶しい。昨日の朝に声をかけられてから彼はことあるごとに私を見ていた。最初はなんとか自意識過剰だと自分を誤魔化していたけれど、あそこまで見られたらもう認めるしかない。私は彼に見られていた。観察されていた。様子を伺われていた。どう言い換えたところでどれも私には不快なものだった。


「俺は尾白猿夫」
「…………」
「えっと、君の名前も教えてくれないかな」
「……そういうの、やめてよ」


突き放すのは早いうちがいい。下手な馴れ合いはお互いの身を滅ぼすから。もう誰も巻き込みたくないから。私に踏み込ませたくないから。


「私、誰とも仲良くする気ないから」


目線すら合わせない。精一杯の拒絶。これだけすればもう話しかけては来ないだろう。それくらいの感性の持ち主であることを切に願った。けれど結局、私の願いなんて誰も叶えてはくれないんだ。


「そうは言っても、これからクラスで協力する場面も増えてくるだろうし。仲良くする気はなくてもそれなりにお互いのことは知っておかなくちゃいけないと思うよ。せめて、名前くらいはさ」


正論を言ってる癖に目的が明け透けだった。ただ私の名前を知りたいだけという、しょうもない目的が。たかが名前だ。名簿なり相澤先生に訊くなり方法はあるだろうに。むしろ昨日のテストで何度も相澤先生が名前を呼んでいるんだから、その気であればとっくに知っていてもおかしくないのに。なんで私の口から言わせたがるのか。結局のところそこが不気味だった。煩わしかったとも言える。二日目で既に妙な気疲れが出始めているというのに、さらに放置したらどれだけ疲れるのか。もしかしたら諦めてくれるかもしれないけれど、それはなんとなく期待できない気がして。

もう名前を教えるくらい、いいんじゃないか、と。

そんな魔が、差してしまった。


「……漂依芳」
「ん、漂依さんね。よろしく」


決してよろしくはしないけれど。


「……あのさ」
「うん?」
「私、入試の時に何かした?」


そこで、困り顔の癖に今まで一歩も引かない態度だった尾白くんの態度が崩れた。なんというか、狼狽えているというか、そこを訊くのかとでも言いたそうな顔だ。これには思わず私も目を見開く。

尾白くんが私に突っかかってくる理由は、私に興味を持つような何かを彼にしてしまったからだと考えた。だからその出来事を訊きたかったのだけど、この反応は正直予想外だった。

てっきり喜々として話してくれるものだと思っていたから、私はまじまじと彼の表情を見つめてしまった。そんな、何か私が想像しているものよりもとんでもないことをしてしまったのだろうか。頑として目を合わせなかったさっきまでとは打って変わってつぶさに相手を観察する。不躾と言われようが先にこれをやったのは尾白くんのほうだ。かくいう彼は本格的にどう言っていいか分からなくなったのか、視線を泳がせながらもやや乱雑な手つきで後頭部をかく。丸出しの耳が少しだけ色づいて見えた瞬間、頭の中でけたたましい警鐘が鳴り響いた。

右足を背後へ一歩、ずらす。


「あー、何かしたっていうか、俺が、」
「はよーす尾白。入学二日目からナンパかよ、意外と手が早えな」
「か、上鳴ッ!」


今だ。後ろに置いた右足を軸に体を反転させて全速力で廊下へ出た。


「あ、待って漂依さん!」


無駄にバリアフリーな扉を抜け、できるだけ一番人気のなさそうなトイレの個室に逃げ込む。席にまでついていなかったおかげでバッグが手元にあるのが有り難かった。壁に寄りかかる形で取り出した手帳の中身を確認する。本当なら今頃自分の机で今日のヒーロー基礎学に向けたシミュレートをしていたはずなのに。わざわざこんなところに来てまで会いたがってたオールマイトと、今日会えるっていうのに。顔を半分覆っていたマスクをむしり取る。突然襲ってきた吐き気と目眩で気分は最悪だった。


「甘ったれんな。寄っかかるな」


あれ以上尾白くんと一緒にいたら、また起こってはいけないことが起きてしまいそうな予感がした。初日に見た彼もさっき見た彼も、今までの人とは微妙に違っていたから。もしかしたら私の勘違いで、彼はそうじゃない人なのかもしれないって。会って二日の人間に対して淡い期待が生まれそうになった。産声を上げる前に死んでしまったけれど。

やっぱり私は安い。安くて簡単で甘ったれた子供のままだ。


「いらない、いらない、【いらない】」


甘えはいらない。期待するな。他人に期待するくらいなら自分でも信じてろ。

予鈴が鳴って、バッグを背負い直して個室から出る。鏡に映るのはいつもどおり紅い眼をした自分でしかない。遅刻すれすれで慌ただしく走る生徒に紛れ、後ろの扉から自分の席を目指した。私の席の斜め前は物静かな男の子で、前は八百万さん。どちらも必要以上に話しかけてこない人だから、再度後ろから入るべきだったと後悔した。
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