緑谷出久の忘却



夢見心地だった。ふわふわしていた。ただ、体が軽くて、久しぶりに世界を広く見渡せたような気がした。茜色に染まる街も電線から飛び立つカラスも、いつも一人で歩く帰り道と全く同じ光景がまったくの別モノに見えた。なんだか、とても綺麗だ。

『君はヒーローになれる』

誰にも言われたことがなかった。母さんも父さんも、クラスメイトも先生も、もちろんかっちゃんにだって言われたことがない。だからこそ心の底から欲しかった言葉を、オールマイトは僕にくれた。それは何よりかけがえのない宝物で、煤だらけのノートに書かれた“ALLMIGHT!”の文字が少しだけ霞むほどだ。決して涙がぶり返したわけじゃない。まだ泣いた目が重くてしょぼしょぼするけど。

“無個性”だって……僕だって、ヒーローになれる。僕だって、僕だって。


「あ、ああああの!」


住宅街の一角にある寂れた公園は夕方になるとまったく人気がない。完全に日が落ちれば灯りは街灯一本だけになり、唯一のはずのそれも蛍光灯が切れかけで心もとない。お化けか何かでも出そうな雰囲気が漂っていて夜に寄り付こうなんて人がいないくらい不気味だ。だから、一人でポツンとベンチに座っている女の子はとても目立った。俯いて垂らされた長い髪の毛と鼻の上まですっぽり覆ったマスク。影になっているのも相まって、その子がどんな顔をしているのか僕にはまったく見えなかった。なのに咄嗟に話しかけてしまったのは、浮かれて気が大きくなっていたのかもしれない。

もうすぐ完全に夜になる。不審者やヴィランが出たら大変だと、僕は女の子に声をかけた。誤算だったのは僕が生まれてこの方まともに女子と話したことがなかったこと。最初の“あ”の口の時に気づいて、そこから引きずられるように自信のなさが言葉の端々から滲みでていく。


「…………なに?」


案の定、彼女は俯かせていた顔を怪訝そうに歪めて僕を見上げてきた。伏し目がちだからか、綺麗にカーブを描く睫毛が白いマスクに影を作っている。シャーペンの芯どころかマッチ棒すら乗りそうなほど長い。ちらりと覗く瞳が上目遣いになっただけで、僕の顔は緊張で一秒前よりさらに赤くなった。


「おおおん、おんなのこが、こんな時間に、あの」
「人を待ってるから」
「あ、でも、あぶな、いよ」
「……じゃあ、【君が一緒にいればいい】んじゃない?」
「へあっ?!」


思いもよらない提案にびっくりしたのか、体はいつの間にか彼女の隣にダイブするように座っていた。盛大に浮かれている。普段なら女の子とこんなに近い距離で一緒に座ろうなんて思いもしないだろうに。僕はそんな自分がとてつもなく恥ずかしく感じた。

しばらく顔を腕でかばったり静かな空気に居た堪れなくなったり忙しなくしているうちに妙な落ち着きが出てきた。そうだ、彼女は僕が“無個性”なのを知らない。同じ中学の女子ならまず一緒にいることすら嫌がる。話しかけても無視か逃げていくだけだから。僕は少しだけ嬉しくなって、思い切って質問することにした。


「だ、だれを、待ってるの?」
「オールマイト」
「え?」


返ってきた内容は予想の上を飛んでいく。


「オオオオールマイトぁあああ!!?」
「うるさい」
「なん、え、知り合い? もしかしてどこかの相棒サイドキック? でも僕と同じくらいの年だし、え、なんで、え?」
「【黙って】」
「っ!」


あれ、なんで口が勝手に閉じたんだろう。

喉をさすっても違和感はない。口も舌もちゃんと動く。でも声を出そうという気が全く起きない。それどころか僕にはもともと声を発する器官なんてなかったんじゃないかとすら思えてきてしまう。おかしい、けど何がおかしいのかすらとても曖昧で。

混乱に混乱を重ねる僕はたまらず彼女を見た。驚くことに彼女も僕を見ていた。さっきの俯いて下から睨みつけるような上目遣いと違って、上げられた顔にバランス良く配置された紅い瞳が何故か真っ直ぐ僕を見つめている。僕らは意図せず、面と向かって見つめ合う形になってしまった。だから僕には彼女のマスクより上の顔がさっきよりよく分かった。ゾッとするほどに整った、綺麗な目をしていた。


「例えば、君が……“無個性”だったとする」


“無個性”。その言葉が僕の背筋を冷たく撫でた。女の子は顔を強ばらせた僕なんかどうでもいいという風にいきなり始まった例え話の続きを話す。


「で、君の目の前に火の“個性”を持っている人がいるとするわ。何でも燃やせる“個性”よ。キャンプや花火とかに重宝されたりしてね、ちょっとしたものから大きなものまで燃やせるの。そんな人が目の前にいたら、“無個性”の君はどう思う?」
「…………すごく、羨ましいと思う」


答えは簡単に出てきた。突然饒舌になった女の子に対する驚きも、さっきまで声が出なかったことも忘れて、僕は熱に浮かされたような感覚のままもしもそんな人がいたら、と考える。頭の片隅でかっちゃんみたいな人じゃなきゃいいなと思いながら。


「つまり燃焼系ヒーロー『エンデヴァー』みたいな能力だよね? そりゃ、彼ほどの強力な“個性”があれば努力しなくともそれなりの相棒、下手すればヒーローになれる。努力しようものなら頑張っただけの結果が着いてくるだろうから、努力しないなんて選択肢はない。そんな“個性”が僕にあったら、誰にもヒーローになる夢を馬鹿にされなかった。諦めたくなることだって……」
「ふぅん」


聞いておいて彼女は興味の欠片もない相槌を打つ。いつものくせで熱く語りすぎたかもしれない。まだ熱いままの顔にさらに熱が集まってきた。落ち着けと頬を擦る僕に、彼女はもう一度ひんやりとさせる質問を投げかけた。


「じゃあもし、その人が自分の“個性”に悩んでいたとしたら」
「えっ」


なんで? そんなすごい個性なのに。


「四歳の時から一生付き合っていくとはいえ、強力な“個性”ほど制御は難しいもの。特に火なんて、少し気を抜けばちょっとしたことで人に火傷を負わせてしまうかもしれない。最悪、丸焦げにして人殺しのレッテルを貼られたりしたら、晴れて敵の仲間入りだよ」
「そ、それは」


人の“個性”の分析はしてきた。でも、自分が持ったときのことなんて考えたこともなかった。そんな、人を傷つけてしまう恐怖なんて、考えたこともなかった。


「毎日、毎日。人の一生を台無しにする恐怖を抱えていたとしたら、その人は自分の“個性”を手放しで愛せるかな……こんな“個性”いらなかったって、思うんじゃないかな」


呆然とした。

僕が知ってるヒーローは誇らしげに“個性”を使って人をたすけているし、かっちゃんもその取り巻きも当たり前のように“個性”を使いこなしている。恐いとか嫌だとか、そんな素振りを見せる人は僕の周りには誰もいなかった。何も持たない僕を見て、自分が“個性”を持っていることに安堵するような人たちが、僕の周りにはいつも渦巻いている。自分の“個性”を疎む人の気持ちなんて、分かるわけがないじゃないか。


「君が分からないように、“無個性”は“個性”持ちがどんな痛みを持っているのか、本当の意味では分からないんだよ。その逆もまた然り」


“個性”持ちと“無個性”は分かり合えない。

彼女は念を押すように言った。それが僕には涙が出そうなほど悲しかった。だって、もしもそれが本当のことだったなら、僕は誰にも分かってもらえない。総人口の八割が“個性”を持って生まれてくるこの社会で、“個性”に囲まれる“無個性”の僕は一生孤独だ。家族とも、誰とも。その人が“個性”を持っている限り僕たちは分かり合えることはない。そういうことを彼女は言ってる。いじめられることよりも、馬鹿にされることよりも。それはなんて、辛いことなんだろう。悲しくて、苦しいことなんだろう。


「でもね」


なのに、続いた言葉は悲観的になりかけた僕の耳に今までで一番柔らかい音で届く。その瞳は変わらずとても冷めた温度をしているのに。薄く膜の張り始めた目で僕は再度彼女を見つめた。


「“無個性”の人の気持ちは“無個性”にしか分からないとしても、分からないなりに理解しようと頑張る“個性”持ちの方が、私は嬉しいと思う」
「君も、“無個性”なの?」
「いいえ、残念ながら“個性”持ち」
「残念?」
「残念」


そこで彼女は今までずっと座っていたベンチから立ち上がった。長く話し込んでいたのか、空はすっかり真っ暗になっていた。そういえば、オールマイトを待っていると言っていたのに、なんでこんな話になったんだろう。情報が曖昧すぎていまいち現実味を帯びない。ただ釣られてその立ち姿を見つめ続けるだけの僕に、彼女はマスク越しでも分かる程度に目を細めた。何故か、僕には彼女が笑っているように見えた。

今までの話口と打って変わって普通の女の子みたいな笑顔だと、そう思った。


「私が“個性”を持っていなければ、君みたいな“無個性”の子と傷の舐め合いができたのにね。

──【今日、私と会ったことを忘れなさい】」


意識が完全に遠退く瞬間、僕はあの子の名前を知らないことに気付いた。気付いて、忘れた。



「人を笑える余裕があるのね」


静かな声だった。その声が聞こえたのは、僕が彼女とそんなに離れた席に座っていなかったからだと思う。心底冷めきっていて、呆れていて、蔑んでいるのが分かる声。鶴の一声ってやつなのか、その完璧な非難の声に笑っていた人は一人残らず口を噤んだ。大半が彼女の物言いに不満を持った顔だったけど、何人かはとても罰の悪い顔で前を向いていた。

そんなたくさんの視線を受けても、彼女は堂々としていた。本当に笑い声が不快で釘を刺したって気持ちだったのかもしれない。けれど僕はちょっとだけ救けられた気分になった。今まで“無個性”の僕を庇ってくれる人なんか誰もいなかったから。たとえ僕が“無個性”だったことを知らないとしても、そうだったらいいなと勝手に思った。

背筋をまっすぐ伸ばしてプレゼント・マイクを見つめる紅い瞳。長い髪に覆われることなく晒されたマスク越しの顔が、本当は俯いているべきなんじゃないかな、なんて。僕は不思議と確信していた。それが何故なのかはいつまで経っても分からずじまいだった。

ヒーロー科の合格通知を貰ってひとまず余裕ができた頃、唐突に彼女のことを思い出した。彼女は受かったのだろうか。もし受かっていたら雄英でまた会えるかもしれない。その時はちゃんとお礼を言おう。庇ってくれてありがとう、と。それは僕の自己満足でしかないかもしれないけど、それでも。この嬉しいという気持ちを黙って仕舞っておくのは勿体無い気がしたから。


「あの、漂依さん!」


保健室から出てきた彼女に、勇気を出して声をかけた。
← back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -