消えないもの



いったん制服に着替えてから訪れた保健室には先に緑谷くんが来ていたらしく、扉の前ですれ違いに中へ入った。だから当然、保健室にはリカバリーガールしかいない。相手は同性で、おばあちゃんで、何よりプロヒーローだというのに、それでも服を脱ぐことには抵抗があった。震える手付きでブラウスのボタンを外し、キャミソールを脱ぐ。二人しかいない保健室がさっきよりも静かに思えた。


「おやまあ……」


リカバリーガールの小さな手が私の肩に触れて、そこから滑らせるように脇腹と背中に指を這わす。時たま薄くなった皮膚にむず痒い刺激が走って、無意識に体が勝手に震えた。そう、きっと痒かったからで、決してあの手を思い出したからじゃない。そんなわけ、絶対に。

ひとしきり触診を終えたリカバリーガールが、その皺くちゃな唇を突き出して私の肩に押し付ける。するとあっという間に肩の痛みが消えていって、変わりに重苦しい疲労感が全身にのしかかった。これが治癒力の活性化。これも結局身体に無理をさせていることに変わりないんだ。


「右肩と全身の細かい傷は最近のものとして、お腹と背中の傷は随分昔のものだね」
「……はい」
「あれは一生残る傷だよ。私の治癒でも少し薄くなったくらいさ」
「知ってます」
「知ってます、ってねえ」


制服のブラウスを急いで着直しながら、頭の中は同じことをぐるぐると思い悩んでいた。

傷を見られた。見られたくなかった。何か言われるんだろうか。また好き勝手言われて広められるんだろうか。そうなるくらいなら忘れてもらったほうが……。でも相手はプロのヒーローだ。簡単にかかってくれるか分からない。ああ、もう。だから保健室なんて来たくなかったのに。

ハア、と。深い溜息が聞こえてきた。溜息を吐かれるのも今日で二度目だ。


「何があったかは知らないけど、このことは他言無用にしとくよ」
「……いいんですか?」
「もちろんさ。だから今度からは渋らないで保健室に来るんだよ」


目元のシワがさらに深く刻まれて、仕方ないという気持ちを隠さず顔に表している。

正直信用できるか否かはまだ決め兼ねるけれど、“個性”を使わなくていいと思うと途端に気が楽になった。シンリンカムイを模したキャップから慣れた手つきでペッツを2粒渡されて、私は逃げるように保健室から廊下に出た。口に入れたペッツが入試の時に貰ったやつより甘く感じて、それがとても不思議だった。


「あの、漂依さん!」


扉を閉めて振り返ったところで真っ先に緑のもじゃもじゃ頭が目に入る。先に治療を受けて帰ったはずの緑谷くんが何故か私を呼び止めた。本当に何故。


「……であってる、かな?」


自分で聞いておいて不安そうな顔をしないで欲しい。首を傾げて近寄って来る彼に対して私は警戒心しか抱けなかった。保健室から出てきた時は無言だったのに、何故今の今まで私を待ち伏せしてまで話しかける必要があるのか。


「そうだけど、なに」
「あ、怪我の方は大丈夫だった? 僕、相澤先生が言うまで漂依さんが怪我してるの気付かなくって」
「み……」


緑谷くんこそ指、大丈夫だった?

そう言いかけた口を、固く噤むのにも慣れてしまった。


「……だから?」


ぶっきらぼうで、愛想の欠片もない言葉。男の子に対してはほとんど自然に出るようになってしまった嫌な態度。特に出待ちや二人きりのシチュエーションだとそれは顕著になる。決して良い印象ではないことは私だって分かっている。けれど、好かれることと嫌われることを天秤にかければ嫌われる方が何倍もマシだから。

胡乱な目を堂々と晒して緑谷くんの顔を見る。やっぱり、どこかで見たことのある顔だと思った。けれど、思い出せない。


「あの、さ。入試の時、庇ってくれてありがとう」
「入試?」


入試……そうだ、確か入試の時に笑われていた子がいた。あの男の子が緑谷くんだったんだと、それは今ようやく思い出せた。でも、この既視感はなんとなくそれだけじゃない気がする。もっと前。どこで会ったんだっけ。何を話したんだっけ。


「僕、生のプレゼント・マイクに興奮しちゃって。飯田くんに注意された時にみんなから笑われて。みんな真剣な中で騒いじゃったのは自業自得だったんだけど、漂依さんが庇ってくれたことは純粋に嬉しかったんだ」
「は?」


その疑問は緑谷くんの今の言葉で一瞬で吹っ飛んだ。

庇う? 何それ、意味が分からない。私が初対面の人を無条件な庇うような、そんな優しい人間に見えるっていうの。


「呆れた」


心底、呆れた。マスク越しでも分かるくらいにはそうだったんだろう。緑谷くんの肩がビクッと動く。


「私は言いたいことを言っただけ。君のことなんてこれっぽちも考えてなかったの。お礼を言われる筋合いはない」
「あ、あはは、そう、だよね。やっぱり」


空笑いが痛々しく廊下に響く。俯いてもじゃもじゃな髪の毛しか見えなくなってしまった。けれどそれは一瞬のことで、彼はすぐに顔を上げて私に向かって、微笑みかけた。


「でも、それでも僕は、嬉しかったよ」


またね、漂依さん!

そう言い残して昇降口のほうへ駆けていく背を見送る。さっきの顔はどういう気持ちだったんだろう。眉尻を下げているせいか、笑っているのに少し泣いている風にも見えた。


「変なの」


ちくり。慣れた痛みが心臓をつく。

こんなに男の子と長く話したのは久しぶりかもしれない。明確な罪悪感を抱くのも、久しぶりだった。でも、だからどうするってこともない。

愛用のショルダーバックをかけ直して、下校のために緑谷くんが消えていった方へ私も歩いた。
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