面影隠し



無愛想な鏡の中の自分がネクタイの結び目を気にしている。寝不足でもないのに座っている目はもう癖になって治らないのかもしれない。目つきが悪いせいで無駄な喧嘩の種にだけはならないように祈っておこう。

慣れないネクタイの形は少々不安なものの、何分使ってもこれ以上良くなることはない。すぐに私なんかの身なりを気にする人なんていないという結論に達して、後は行動が早かった。厚めの黒いタイツを履いて、膝丈のスカートを少しだけ下に伸ばす。糊の利いたブレザーを羽織ってから新しいマスクを顔につけた。これで私の顔は目から上しか相手に見えないでしょう。

決して、自分の顔が嫌いなわけじゃない。ただ苦手なだけ。もう朧げでほとんど覚えていない母親の顔を思い出してしまいそうで、怖いだけ。この顔が確実に母と同じものだとは限らないけれど、もしもを想像すると軽く目眩がする。例えマスクが顔の半分だけしか隠してくれなくても、それだけで私はちゃんと前を向ける。もう過去を振り返りたくはない。見たくない。思い出したくない。忘れたい。

もう一度、マスクをつけた状態で鏡を見る。雄英の制服を着た女の子が猫背気味に立って私を睨んでいる。顔から見えるのは紅い眼だけ。そう認識しただけで強ばっていた肩から力が抜けて、緊張がどこかへゆっくりとフェイドアウトしていった。こんなもの一つで安心感を得られるなんて、相変わらず私って安い人間だわ。


「案外受かってしまうものね……」


そんな安い人間が、今日からあの雄英のヒーロー科に通うんだ。

愛用のショルダーバックを肩にかけ、茶色いローファーに履き替える。誰もいない家にいってきますをする気は一ミリも起きなかった。


私の元に合格通知が届いたのはちょうど今から一ヶ月前のこと。入試で負傷した体はリカバリーガールのおかげでリハビリする必要もなく完治したけれど、たった十分で怪我を負うほどやわなものだとは思わなかったから。私は日々体作りと研究に明け暮れていた。そんな時に妙に厚い手紙と薄い手紙の二通が雄英から届いたのだ。一方は普通科の合格通知。普通に書類数枚が入った普通の手紙だったのに対して、ヒーロー科の方はわざわざ小型映写機付きの豪華仕様だ。何より驚いたのが、私が雄英を受ける理由になった人物が登場したことだった。


『“Plus Ultra”!! 我々は君を歓迎しよう!!』


本当に雄英の先生方はその言葉が好きらしい。

自信に満ち溢れていて、何者にも恐れず、笑顔を絶やさない。まさしく1ヒーロー、オールマイト。映像とはいえ目の前に伝説がいる光景はただひたすらに眩しいものだ。そんな存在が口にする高みへの誘い文句は、目的のため以外に関しては向上心の欠片もないと自負している私にとって耳に痛い言葉だった。とはいえ、オールマイトが雄英に赴任するという噂が本当だったことが証明できたことは有難い。危うく入学初日に学校を辞めるところだった。いつでも出せるように忍ばせてある編入届けをファイルの奥に仕舞いこむ。せいぜい目的を果たすまであちらに愛想を尽かされないように頑張ろう。



雄英高校は私の住んでいるマンションから地下鉄で三駅分離れたところに建っている。満員電車に揺られて十分。地下鉄のホームから地上に出るとすぐに近代的な校舎が見えるのだから好立地も甚だしい。国の本気具合が推し量れるものである。でかでかとした校章が掲げられたゲートをくぐりぬけ、クラス割の掲示板に目を通す。ヒーロー科はA組とB組の2クラスで、私の名前はA組の最後だった。番号が最後になるのは初めてだ。校内地図を見ると現在地から一番近い位置にあるはずなのに実際の距離はそれなりに遠い。


「お、おはよう」
「……?」


地図としばらくにらめっこしていると背後から誰かに声をかけられた。振り返って一番に目に付いたのは尻尾。先っぽだけふさふさしているそれが妙に忙しなく揺れている。その持ち主である男の子も、思わず話しかけてしまったという風に忙しなく目を泳がせている。

ああ、早速か。


「急にごめん。その、入試の時に見た顔だったから、ここにいるってことはヒーロー科に受かったのかなあ、と。もしかして君もA組? 良かったら教室まで一緒に行かない?」
「……間に合ってます」
「あ、そっか。ごめん」


咄嗟に出てきたお断りの言葉を投げつけて早歩きで教室に逃げた。同じクラスの人だった。男の子だった。入試の時に顔を覚えられるようなことをしたんだろうか。私が意識を飛ばしている間に何かしてしまったのかもしれない。特に注意していたことが既に起こっていたと思うと入学初日から憂鬱な気分になってしまった。

思ったよりも早い時間に着いた教室には既に何人かの生徒がいて、誰かが入ってくるたびに興味深そうな顔で観察している。それは私も同じようで、もともとの猫背をさらに丸めて指定の席に着いた。私の席は窓側の一番後ろ。一つだけ列からはみ出たところだった。


「後ろの席の方ですね」
「っはい?」


驚きすぎて声が裏返った。前の席が女の子だったせいで話しかけられると思ってもみなかったから。


「初めまして、八百万百と申します。一年間よろしくお願いしますわ」
「ぁ、」


女の子に初めてよろしくされた、かも。

凛とした、自信と誇りを兼ね備えた綺麗な顔。薄く笑みを浮かべながら紡がれた綺麗な言葉が私に動揺を与えた。そうだ、初対面なんだから嫌われる要素なんてまだないのに。怯える必要も顔色を伺う必要もないのに。マスクの下で軽く息を整えて、動揺を悟られまいと必死に目を逸らした。


「あなたのお名前は?」
「えっと、漂依芳、です」
「漂依さん? あら、ではその席は間違いでは?」
「そう、だよね」


確かに、私の名字なら八百万さん後ろに来ることはありえない。でも座席表には出席番号も名前も書かれていたし、学校側に何かしらの意図があるのかもしれない。

あからさまに困ってますと首を傾げれば、彼女もそれ以上の追求はしてこなかった。できた子だと思った。私が今まで見てきた女性像を覆す存在だ。うるさくなくて、睨まなくて、無視しなくて、叩かない。ああ、今は違くても後々そうなるのかも。


「さっきから下を向いていますけれど、もしかして体調が優れないのでしょうか?」
「え、う、うん。だから、しばらくそっとしておいてくれると嬉しい、です」
「そうでしたか……辛くなったら声をかけてくださいね。保健室まで付き添いますわ」
「うん……」


大丈夫。大丈夫。私はこれまでどうり、一人で大丈夫。男の子とも女の子とも、深く関わらないでいれば、大丈夫。


「お友達ごっこしたいなら他所へ行け」


始業のチャイムが鳴って、廊下から聞こえた男の人の声に深く頷く。

私は友達ごっこをしに来たんじゃない。だからこれでいい。これでいいんだ。

名前変換した時に名字がラ行以降だと違和感があるかもしれませんが、『何故か主人公だけあいうえお順じゃない』ということを書きたかっただけなので目をつむっていただけるとありがたいです。

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