尾白猿夫の憧憬



その子はヒーローだった。


「怪我ない? ない? 良かった!」


人差し指でマスクを下して、露わになった顔いっぱいに笑う。汗まみれの傷まみれで、ついさっき飛びついて仮想ヴィランを鎮圧させたばかりとは思えないほど、力強く鉄くずの上に立って、こっちを見下ろしている。本当はそんなことをする必要は微塵もないはずなのに、救けた相手の不安を払拭するために笑って見せた。それは揺るぎない安心感と希望を抱かせてくれる、とてもすごい光景だと思った。


「さっきの蹴りすごかったね! ナイスファイト!」


まるでオールマイトのようなヒーローが、そこに立っていた。



***



入試の実技試験。疲労で蹴り技の着地に失敗して体勢を崩した時、仮想敵の攻撃を受ける直前に飛び込んで来た女の子。型を見る限りカンフー。鋭い飛び蹴りで的確に仮想敵の核を破壊して見せた。鮮やかな身の熟しと、競争相手にさえ心を砕く奉仕の精神。ヒーローの素質を一気に見せつけられて、ただ純粋に憧れた。

こういう人がヒーローになるべくしてなるんだ。

家に帰って、お風呂に入って、ご飯を食べて、歯を磨いて、布団を被っても。あの時見た立ち姿が頭から離れない。靡く金髪がキラキラ輝いてて……あ、オールマイトと同じだ。

今さら気付いて、だからオールマイトみたいだと感じたのかと納得した。でも、たとえ彼女が他の髪色だったとしても同じ感想を持っただろうこともなんとなく分かる。“ヒーローとはかくあるべし”という信念をちゃんと固めている。彼女の言動はただ敵を倒すために手足を動かすのとは訳が違った。

俺は、自分が受かることに精一杯だった。

これは悔しさってヤツなのか。それにしては嫌な感じもしないし、どうしてだろうと不思議に思った。答えはテレビに映ったオールマイトの雄姿。市民のピンチに駆けつけたヒーローが『私が来た!』と笑う。そのヒーローに嫉妬なんてしない。比べるまでもなくすごい相手に対して妬むなんて、うん、おかしいことだ。

ヒーローはヒーローになる前からやっぱりヒーローなんだ。

納得すると、今度は自分がどれだけ普通の人間なのかと少し落ち込んだ。受験が終わったばかりなのに明日からの特訓メニューを考え直すハメになった。

ヒーローは生まれながらにヒーロー。その考えが間違っていたことに気付いたのは、晴れて雄英のヒーロー科に入学してからのことだった。


「おはよう」


ヒーローだと思ったあの子は、予想とは少し違っていた。


「…………」


……少しじゃない、かなぁ。

冷たい目に心が挫けそうになる。なんでこんなに嫌われているんだろ。

雄英の登校日初日に見つけたあの子──漂依芳さんは同じクラスだった。受かっているだろうと勝手に決めつけていたけれど、まさかクラスメイトになるなんて予想外だった。

初めて制服姿の彼女を見かけた時は、同じ学校に通えることが嬉しくて思わず声をかけてしまった。その時の反応は、未だに少しショックだ。『間に合っています』と呟いて早歩きで去っていく猫背。一瞬、人違いをしてしまったのかと不安になった。でもあの金髪もマスクもあの時見たのと一緒だ。ジト目で少し睨みつけられたような、いや、気のせいだと思う。思いたい。試験であんだけ動き回って競争相手にさえ笑顔を向けていたヒーローが、同じ学校のクラスメイトには塩対応なんておかしすぎる。

体調が悪かったのか。そもそも知らない人に話しかけられてビックリしたのか。俺の頭はあの受験日の夜のように彼女のことでいっぱいになった。個性把握テストの時も無意識に目で追ってしまって、そのことでも余計に嫌われてしまったのかもしれない。

一応、本当に人違いをしている可能性を考えて、一生懸命受験の時の記憶を掘り起こす。……どれだけ疑って見ても漂依さんはあの時の子だ。髪の色も目の色も、マスクの形状だって多分同じ。何よりあんなにもヒーローらしく仮想敵を倒しながら他の受験生を助けて回る彼女が入試で落ちるわけがない。隣のB組を覗いても彼女に似ている人はいなかった。だから、あの時の子は漂依さん以外に考えられなかった。

プロヒーローだって仕事中は人当たりが良くてもプライベートはそっけない、なんてことはザラにある。仕事じゃないところまでヒーローを演じていたら息が詰まるし。彼女の態度もそういう本音と建前を使い分けたモノだったのかもしれない。急に馴れ馴れしく来られるのは嫌だろう。

……嫌われていてもいい。入試の時に会ったことを忘れられていても、冷たい態度を取られたって、あの笑顔に対する憧れはちっとも曇らなかった。

だから、とりあえずは自己紹介、あわよくばクラスメイト並の交流をしたい。そう思って座席表で初日に名前を確認していたくせに、知らないフリをして何とか直接名前を聞き出した。そしたら漂依さんは、こっちの嘘を見抜いたようなタイミングで図星を突いてきた。


「私、入試の時に何かした?」


その時の俺は露骨すぎた。

まさか面と向かって『憧れています』と言うわけにもいかない。恥ずいし、向こうもいきなり言われたら困るだろう。それどころかキモいと思われて今以上に嫌われるかもしれない。相手の顔を直視できなくなって、視線が別の方向に逃げ出してしまった。

だからその時、漂依さんがどんな顔をしていたかなんて……どんなに怖かったかなんて、知りもしなかったんだ。



***



グローブ越しの手を握りしめて、絶対にはぐれないように力を入れる。大袈裟なくらいに震えた手は、戸惑いながらも弱く握り返してくれた。


「行こう」
「うん」


辺り一帯の視認できる範囲内に敵がいないことを確認して、できるだけ静かに建物の隙間から抜け出した。


『私の“個性”は、』


ついさっき、作戦を立てる上で説明された漂依さんの“個性”。漂依さんが思い込んだことをそのまま相手に思い込ませる能力。それは他人だけじゃなく自分自身にも有効なのだとか。入試の時はドラゴンキッドになりきっていて記憶が完全に飛んでしまったいたのだとか。

そこでやっと納得した。俺が入試の時に見た漂依さんは自分をヒーローだと思い込んでいて、完璧になりきっていた。だから俺のことを覚えていなかったんだってことも。

一度俯いて、震える拳を軽く膝に叩きつける。まるで自分自身に喝を入れるようなその動作が、漂依さんが戦っていることを知らしめている。

つい最近に見た彼女の泣き顔。長い睫毛の奥の、丸い瞳の輪郭が分からなくなるくらい潤ませて、俺と障子を見上げていた。

“普通”。俺はこの言葉があんまり好きじゃなかった。今まで言われ慣れてきた言葉で、ヒーローになるには向かない地味なイメージだったから。もう笑って流せる余裕ができたけど、正直言われて嬉しい言葉ではなかった。

漂依さんにとってのそれは、想像以上に得難いものだったらしい。

“普通に好き”。
“普通に”。

“個性”の暴走で今までどんなことをして、どんな風に失敗して、あんな態度を取るようになったのかは分からなかったけれど。今までの刺々しい態度は全部そのせいだってことは分かった。

俺のことが怖かったから、遠ざけたかったんだなって。

さっきだって、小声で作戦を立てるために近寄った時、あからさまに震えていた。人に嫌なことをされてきたから過剰に反応するようになってしまったんだ。もし、俺がこの前漂依さんを否定していたら、話すことすら許されなかったかもしれない。

この前。お昼休み。俺と、障子と、何故か轟と。四人で話したあの時。


漂依さんが頭を下げている間に、障子と目配せして嘘をついていなければ、この距離にまで来れなかった。


だって障子も、俺も。感情の名前は違えど漂依さんのことを特別に思っていた。普通だとは少しも思えなかった。でもあそこで本当のことを言って、泣いている女の子を怖がらせるなんてヒーローとしては失格だ。

嘘をつくこと。
怖がらせること。

二つを天秤にかけて、俺たちは嘘を選んだ。それが彼女にとって優しい嘘になってくれることを願いながら。


『私が“個性”を使う時は、手を、繋いでほしい』


漂依さんが自分から提案してくれたこと。前に手を叩かれたことを思えば、かなり勇気が要ったことだろうに。

催眠術の効果は範囲内にいる人間すべてに効く。だから漂依さんが“個性”を使う時は距離を取るしかない。けど、それじゃダメなんだと漂依さんは言った。

俺が憧れた漂依さんは、眉間にギュッとシワを寄せて睨みつけてきたり、苦しそうに誰かと会話してすぐに逃げたり、俯いて視線を合わせなかったり、──泣いて泣いて、最後にとても綺麗に笑った、普通じゃない女の子だったけれど。


『私、救けられる人になりたい』



それでも彼女はヒーローだった。



人目のつかない路地を選んで、最後の最後に大通りに出る。ちょうど火災ゾーンの出入り口の前に出れば、予想通り疎らに敵が立っていた。

相手が俺たちを視認する。それでも走るスピードは緩めない。


「尾白くん!」
「いいよ!」


ギュッと一度だけ力が入った手。それが次の瞬間にはリラックスしたみたいに力が抜けて、今度は俺の方が強く握り返した。

絶対に、この手を離さないように。


「【出入り口周辺に地雷が埋まってる】!!」


すぅ、と。意識が遠のいた。




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