ある水曜日のはじまり



その日の朝は、初めて感じるタイプの緊張をした。

教室に入る前に深呼吸一回。それでも足りなくて二回三回と繰り返す。大丈夫。大丈夫。息が外に出ていくと不安な気持ちも外に出ていくような、そんな変なイメージが湧いてくる。とても、楽観している。こんなことは初めてで、その理由も分かっている。だってこの中には私のことを普通に扱ってくれる人が三人もいるんだから。

普段なら前の入口から入って、教卓の前を通って、一番奥の通路まで早歩きで通り過ぎるのに、今日はゆっくり一歩、教室に足を踏み入れた。言う。言う。たった四文字。言う。普通なら言える。大丈夫。言える。


「おっ、おおお、おはっ、おはよぅ」


教卓から見て左から二番目。一番前が尾白くんの席。その横に障子くんも立っていて、キョロキョロと二人の顔と床と手とに視線を泳がせる。二人の表情は、昨日と一緒だと思う。たぶん。あいさつ、できた。たぶん。自信がなくて二人を直視できない。


「おはよう漂依さん」
「おはよう漂依。昨日は帰り大丈夫だったか?」


行ったり来たりの頻度が床と手ばかりになる前に、二人は挨拶を返してくれた。勝手にバッと上がった顔。なんだか、何て言えばいいのか、口がムズムズして、マスクで隠れているのをいいことにムズムズをそのままにして、二人に顔をまっすぐ向けるように努力した。


「おかげさまで。だいじょうぶ、でした」
「それは良かった」
「何か困ったことがあったら話聞くから」
「はい、うん。ありがと」


これが普通の挨拶。普通の会話。感無量が行き過ぎて首を振る動作が大きくなった。


「どっちだ……」
「どっちというか、どっちも、とか?」
「二択じゃなくてさらにヤベェ三択目が出てくるとは」
「漂依スゲー」


大丈夫。大丈夫。カバンの肩紐を両手でギュッと握りしめて今度こそ自分の席に向かう。その途中で轟くんと目が合った。あっ! あ、あっ。


「お、おはよう轟くん」
「ああ。おはよ」


言えた。今度はさっきより自然だった。何とも言えない満足感というか、達成感があった。


「よ、四択目だッ!」
「四角関係だと!?」
「丸く収まったスクエア!」
「予想の遥か上を行く女!」
「漂依さんマジ半端ないって!」


ビクッと。名字を呼ばれたような気がして肩が跳ねる。でも顔を上げる勇気もなくて、聞こえなかったことにしてすぐに自分の席についた。

やっぱり教室で男の子に声をかけるのはいけなかったかもしれない。また、嫌われてしまったかもしれない。でも、普通の子はクラスメイトに挨拶をするし、普通なら、普通のことをしていいんだ。大丈夫。大丈夫。一つ息を吐いて、カバンの中身を机の中に移し替えていく。

今日の午後はヒーロー基礎学がある。何をするのかは分からないけど、また“個性”を使うことは確かだ。この前みたいに暴発して誰かに迷惑をかけたら、今度こそ相澤先生に見放されるかもしれない。

今度こそ、ちゃんとコントロールしないと。

最初の授業の準備をしながら、まだ弾んだままの胸を必死に宥めた。



***



今日のヒーロー基礎学はコスチュームを着なくてもいいらしい。

雄英の体操服にいつものマスク。サイドポーチがくっついたベルトを腰に巻いて、マスクのせいでつけられないインカム型のマイクと髪につけなかった分のピン十本を入れる。左手首に腕時計型の小さな鏡を確認すると、紅い瞳が曇りなく映った。


「あら、漂依さんは体操服ですのね」
「えっ? あっ……はい。あのコスチュームは、サポート会社に送ったの」
「もう変更するのですか?」
「あれは、その、体にピッタリ過ぎて……」


更衣室で八百万さんに話しかけられて困る。八百万さんのコスチュームこそ体にピッタリと張り付いたデザインで、恥ずかしがる方がおかしいように思えてしまう。


「あの、漂依さん」
「は、はい」
「尾白さんや障子さん、轟さんとはいつの間に仲良くなったのですか?」


仲良く……仲良くなったのかな?


「だよねだよね! この前まで尾白とかにシンラツだったのに! 入学してソッコー喧嘩したのかと思った!」
「私もなんだか安心したわ。芳ちゃん、初対面の時よりお顔が柔らかくなったもの」
「何か共通の話題でもあったのでしょうか? わたくしも漂依さんとお友達になりたいですわ」
「オトモダチ……?」


全体的にピンクなイメージが強い芦戸さんと、蛙のイメージの蛙吹さんが八百万さんの肩口に話しかけてくる。二人とも朗らかで、悪意の欠片もない様子で私を見るから、調子が狂ってしまった。

八百万さんのお友達発言も相まって、余計に。


「友達がいたことなんて、一度もない、けど」


深く考えずに出て行った事実。その場の空気が凍ってから、自分が何か失言をしてしまったことに気付いた。


「ぁ……ご、ごめんなさい」
「あ、待ってくださいまし、漂依さん!」


眉を下げて、口を半開きにして、頬が引き攣って。三者三様に、でも明らかに驚いた顔をしていた。“普通じゃない”って顔を、していた。『あんた、異常だよ』誰かに言われたことを思い出す。『こっち来ないでくれる? 汚いのがうつるから』誰だったかは忘れたのに、言われたことだけはずっと覚えている。

首を鷲掴みにされたみたいに喉が苦しくなって、とっさに更衣室から逃げ出してしまった。

早歩きが小走りに、小走りが全速力になって、頭の中が酸素不足で何も考えられなくなるまで走る。逃げてしまった。また、逃げてしまった。変わりたいのに、普通になれそうなのに、また普通じゃないことをしてしまっている。朝の楽観的だった気持ちが元に戻りかけて、戻らないように頭の中を空っぽにする。そうしている内に集合場所にまで辿り着いていた。

……あ、警棒がない。

バスの前まで来てから気が付くなんて。もう更衣室まで行って戻ってくる時間はない。相澤先生は今日の訓練はレスキューだと言っていたし、戦闘しないなら必要ない、かな。

呼吸を整えて、マスクを弄りながら周囲を見渡す。まだ集まっていないクラスメイトたち数人の中で、その紅白頭はすぐに目に入ってきた。


「とどろきくん」
「なんだ」


声に出す気なんてなかったのに、簡単にすり抜けて相手の耳にまで到達してしまった呼び掛け。ハッとしても遅くて、相手は用事があるのかと問いかける目でこっちを見ている。用事なんてない。すぐに謝ろうとして、ふと一つの疑問が頭を過る。その勢いのまま、昨日家で考えても分からなかった答えを聞くことにした。


「昨日のことなんだけど」
「ああ」
「なんであそこに来たの?」


轟くんとは一度、テスト用紙に落書きしてしまったことくらいしか接点がない。話したこともないし、前の訓練でだって戦ってもいない。丸付けでプリントを交換するのも、最近は何故か八百万さんのプリントしか回って来ないから、本当に一度だけの接触だった、はず。

それが何で昨日、あの話に参加してきたんだろう。まさか、落書きされた腹いせになんてことはないよね?

ジッと相手を見つめて問いかけると、轟くんはしばらく固まってから不意に視線を横にずらした。


「初回の戦闘訓練で、」


思ってもみない単語が出てきて思考が一瞬止まる。


「普段は下ばっか見てボソボソ何言ってんのか分からねぇのに、爆豪と緑谷の戦闘の時は理路整然と分析して見せただろ。あれで、普段の態度は演技で本当は何か隠してんじゃねえかと疑った」


言われてみれば、あの時独り言に近い形で誰かから意見を求められるままに喋っていた。誰に聞かれたのか分からないまま特に気にせずスルーしてしまっていたけど、あれは轟くんだったんだ。


「じゃあ、昨日のは好奇心?」
「ああ……いや、それだけじゃくて、」


その時、轟くんの眉間が深くシワを寄せる。初めて見る、少しだけ怖くて、少しだけ泣きそうな、不思議な顔だった。


「昔の知り合いを思い出して、放っておけなかった」


昨日は悪かった。

掠れた声で軽く頭を下げられ、こちらも軽く首を振る。それっきり黙っていると、ちょうどやってきたバスが近くに停車する。お互い気まずさは不思議となかったけれど、和やかにお喋りするほど仲良くもない。乗り込んで適当な席に座って、全員が乗り込むまでぼんやりとあらぬ方向を眺め続けた。

轟くんの昔の知り合い。私を見て思い出すなんて、どんな奇特な人なんだろう。



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