吐露



もしもこうだったら、なんてことをふと考えてしまう。

もしものこと。もしも私が生まれてこなかったら、あの男はああはならなかった。もしも母が浮気をしていなければ、私はここにいなくて済んだ。もしも私が“無個性”だったなら、可哀想な子として両親に可愛がられていた。もしも、もしも、と。

そうやって自分を慰めるように繰り返すたびにあの男の顔を嫌でも思い出す。そうしてやっと自分が不毛なことをしている現実に向き合ったのは、皮肉にも私がヒーローに現実を突きつけられたあの時だった。裏切られて、責められて、嫌って、目を逸らして。忘れたいと願いながら思い出すなんて馬鹿なことを、何年も続けてきたんだと気付けた転機。私の本当の“個性”に気付いて、今までの誤りに気付いてしまった。

今まで縋ってきた“もしも”は、結局私を助けてくれないってことを。


「確かに、今度は渋らずに来るんだよって行ったけどねえ」


一昨日来たばかりの保健室。帰り支度をしていたらしいリカバリーガールが呆れて肩を竦めている。腫れぼったい瞼の下からそれを見ていた私はとても居心地の悪い気分だった。大人が呆れている顔は私の苦手なもののひとつだ。男の人と、女の人の癇癪と、ため息。胸のあたりがチクチク痛んで仕方ない。


「ほら、これで冷やしな」


保冷剤を巻いたタオルを渡されて目に当てる。真っ暗になった視界でついさっきのことがぼんやり浮かんだ。

帰るよう促された障子くんは最後まで渋っていた。私がどうして泣いたか分からなくて、心の底から心配している風だった。家まで送るなんてことまで言ってくれて、私は余計に恐ろしい気持ちになった。今まで私に好意を抱いた人の中でも、彼はものすごく真っ当な人だった。ヒーロー科にいるってだけでやっぱり普通の子とは違うんだと思う……優しい人、なんだと思う。でも、だからこそ今日はもう会いたくなかった。私なんかに弄られて、迷惑だろうに、その感情すら弄られて分からなくなっている。なんて可哀想なんだろうと、他人事のように思ってしまう自分に吐き気がした。


「せっかく綺麗な顔してるのに、台無しじゃないかい」


真っ暗なタオルの向こう。聞きたくない単語が出てきて眉間にシワが寄った。マスクは使い物にならなくて捨ててしまったけれど、何も見えない視界に気が緩んだのか。何もかもを投げ出してしまいたい気持ちのまま口は勝手に動いていた。


「……綺麗じゃ、ないです」
「綺麗な顔さ。私の若い頃にそっくり」
「だから、綺麗じゃないです」
「変なところで頑固だねえ。なんでそう思うんだい?」
「綺麗な人は、幸せじゃないですか」


リカバリーガールが急に黙る。何を当たり前のことを言っているんだって、また呆れているのかもしれない。怖い。けれど吐き出してしまいたい。そうよ、どうせ何を言ったって変わらないなら、何を言ったっていいじゃない。ギュッとスカートを握りしめる手に力が入った。


「綺麗な人は、痛みに鈍感なんです。傷つけられても気づかないし、人を傷つけても分からないの」


だから、私は違う。


「みんな、綺麗とか、可愛いとか、まるで私が恵まれているみたいなことを言うんです。なんでそんな嘘をつくの……?」


綺麗。可愛い。そんなことを私に言うのは可哀想な人だ。だってそれは、私が無意識に使ってしまった“個性”に引っ掛かった人たちだ。

もしも、もしも私が本当に綺麗だったなら。こんな“個性”なんて関係なく好かれていたのなら、今まで幸せに生きてこられたはずだ。こんな中途半端な気持ちを抱えたままでいることもなく、何の苦労も知らないでクラスの子たちと楽しく笑っていられた。……ううん、そもそもヒーローになろうとすら思わなかっただろう。

そのままの私を好きになってくれる人間なんてどこにもいない。だから私は誰も好きになんてならない。この“個性”がある限り私は真っ当に人と関われない。死ぬまで一生一人きりでいる。大丈夫、理解してる。大丈夫、好かれたり嫌われたりすることより、ずっとマシで楽だから。傷つかないし、疲れない。だったらそれでいいじゃないの。分かってる、分かっているから。

私は誰かの嘘になんか惑わされない。


「世の中不思議なもんでねえ、綺麗だから幸せになれるってわけじゃないんだよ」


何かが、たぶんリカバリーガールの手が私の手を撫でる。それを振り払う勇気はなくて、私はジッと動かないで黙っていた。泣きすぎて思い目が冷やされて、痛かった頭も収まってきて、息も落ち着いてくる。ぼんやりとした私の耳に、リカバリーガールが話している声は不思議とすんなり入って来た。


「あんたは綺麗だけど、見ていて辛くなるねえ……」


それはどういう意味?

タオルを乗せたまま、聞こうとした質問を唇を噛んで我慢した。しばらくそうしていて、何分か経った頃。目の前のタオルが取られて、代わりに手のひらにペッツを転がされた。


「さあさ、もうすぐ日が落ちるから早く帰るんだよ」


今日もらったペッツは、あんまり味がしなかった。



***



保健室からカバンを取りに教室まで戻って、すぐに出た廊下の途中で相澤先生と会った。


「下校時間過ぎてんぞ。さっさと帰れ」
「は、い」


マスクがなくて、前髪もちゃんと分けている私の顔を見ても先生は何も触れなかった。そもそも提出した書類には素顔の写真が載っているから今さらなんだけど、泣いてしまったことと暴走させてしまった“個性”のことで今はとても罰が悪い。背中をいつものように丸めて歩く。


「漂依芳」


足早に横を通り過ぎようとしたところで、先生が私の名前を呼んだ。立ち止まってに振り返った先で、先生はまっすぐ廊下の向こうを見ていてこちらを見る気配はない。だから私は遠慮なくそのやる気のなさそうな背中を観察できた。私を安心させた目を、“個性”を消す素晴らしい“個性”を、こっちに向けてほしいと願う。それと同じくらい絶対にこっちを見ないでほしいとも願っていた。


「これは緑谷にも言ったことだが、制御不能の“個性”を使っておいて誰かにたすけてもらおうなんて思わないことだ」


あっ、と。


「そんなヤツはヒーローにはなれない。ヒーロー科にいる必要もない」


広い廊下の真ん中で、数メートル後ろにいる先生から目を逸らす。ただ気配だけを背中に感じながら、自分自身でも驚いていた。

何を言われたって平気だと思っていた。見つめられるより、無視された方がマシだと思っていた。けれど、ちょっともこっちを見ようとしない相澤先生に必要ないって言われたことは思った以上に私の胸を抉り取った。

ヒーロー科なんて、ただの手段だと自分で言っていたくせに、要らないと言われることはこんなにも苦しい。


「人を救ける前に自分自身を何とかしなけりゃ話しにならないぞ」
「は……は、ぃ……」


言うだけ言って歩いていく相澤先生の目を見る勇気なんて、もうとっくになくなっている。先生は真っ当な先生っぽくはないけれど、言っていることは真っ当な正論だったから。私の自信はただの楽観視でしかなかったことを今日思い知ったばかりだから。

立ち止まっていた足がいつの間にか動いていて、周りの景色もだんだんと早く流れていく。途中から全速力で走っていたのに気付いたのは、学校の外まで出てからだった。重い頭と息苦しい呼吸。さっき言われた言葉を無意識に反芻しながら、ふと思った。


「“Plus Ultra”って、言わないんだ……」


さらに向こうへ。

その向こう側は、私にとっての“もしも”と変わらなかった。

もしもそこに行けたなら、私は今の私じゃなくなる。それは良いことなのか、悪いことなのか。分からないけれど、相澤先生の口から言われなかったことに不安が募る。お前は乗り越える以前の問題だって言われてるような気がして、深呼吸のようなため息が口から出て行った。
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