まだ早い
漂依さんはスキンシップが苦手だ。
女子からの手は最近避けなくなったけれど、男子からのは触れてなくても後退る。近くで見知らぬ誰かが怒鳴り声を上げると眉根を寄せるのは、うるさいからじゃなく怯えてるんだと気付いた。俺が彼女と付き合い始めてからのことだ。どんなことがあって人を怖がるのか、なんて。面と向かって聞ける勇気は今のところない。何か、壊してはいけない距離を感じる。不用意に壊したら、今度こそ俺は漂依さんと今までのようにやっていけない。そんな漠然とした恐怖を感じていた、はずだった。
「それでさ、」
「うん」
これはどういうことだ。
努めていつもどおり、クラスメイトたちとのどうでもいい出来事を語りながらも頭の中は爆発しそうだった。そう、さっきまではいつもどおりだった。いつもどおり人気の少ない裏庭で、適当な話題を提供する俺にマスクを外した漂依さんがサラダを食べながら相槌を打つ。いつもどおり、静かでほのぼのした昼休みの時間だ。それが、なんというか、突然空気が変わった。
さっきから縁石についた右手の小指に当たる。何って、そりゃ、彼女の手しかないわけで。勘違いかと思うほどの一瞬、小指に彼女の小指がくっついてすぐ離れる。これが何回か繰り返し。最初は何が起こっているのか分からなかった感触も、次第にだいたんになってきて、スライドするように彼女の手が俺の手の上に重ねられていく。徐々に徐々に。ゆっくりゆっくり。本人にその気は微塵もないだろうけれど、柔らかい指が何度も手の甲を滑る感触は焦らされている気分になる。正直死にそうだ。
ここで気付いて俺から手を伸ばすのもアリだ。でも漂依さんが、あのスキンシップが苦手な漂依さんが! やっと自分から俺に触れようと頑張っているんだ。あの、鉄壁だった距離を自分で壊そうとしてくれている。この機会を逃したら今後いつになるか分からない、貴重な彼女からのスキンシップ。一応、彼氏という身分としては堪える以外の選択肢はない。
できるだけ、気付いていないというふうに世間話を続ける。チラ見した彼女は、初めてキスした時と同じくらい赤い顔をしていて、見ているこっちにもその色は移りそうだ。というかとっくに移っている。まだに正常に動いている口がもう俺のものじゃないとすら思えてきた。
頑張れ、頑張れ。
「っ!」
そうして、とうとう、俺の手が、違う温もりに包まれる。
予想外だったのは、その手は重なるだけでなく、そのまま俺の指に指を絡めてきたことだった。
「漂依さん……?」
「少しだけ、」
心臓が大きく動き出す。頭が望んでいたもの以上の現実に出会ったせいで上手く回らない。それでも確かに、すこしだけ固い手のひらが俺の手の甲にぎゅうぎゅう押し付けられて。空気まで追い出そうとしているのではというくらい強く握られて、幸せってこんなに息苦しいものなんだと知った。
「ごめんなさい、少しだけでいい、から」
「っダメだッ!」
思わず叫んでしまって、やってしまったと気付いた。咄嗟に離れそうになった彼女の手を慌てて左手で押さえつける。
「お、尾白く、」
「少しとか、言うなよ」
ああ、そんな悲しそうな顔しないでくれ。
いつも不機嫌そうで、刺々しい言葉を吐いて。他人を寄せ付けないのは、自分が嫌われたくないからだって知っているから。ちゃんと分かっているから。だから安心させたい。もっと俺にワガママを言ってほしい。少しとかじゃなくありのままの漂依さんの気持ちをぶつけて欲しい。そんな願いを乗せて、できるだけ優しい顔になるように、俺の本心を彼女に伝えたい。
「漂依さんは、もっと欲張っていいんだ」
もっと俺を困らせてよ。
自分でも恥ずかしいことを言っていると自覚している。むしろ瀕死の重傷だった。のに、彼女がとても嬉しそうにはにかんで俺の頬に顔を近付けるもんだから、俺は静かに悟るしかなかった。
俺、今日が命日かも。
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