愛のしるし



『あの女は俺を裏切った』


物心がついた頃から聞かされてきたこと。機嫌が悪い時、私が何か気に食わないことをした時。あの男は事あるごとに私の母を罵った。そこにいない人間の悪口を憎悪とともに私に投げつける。酷い八つ当たりだ。だって私は母の顔すら覚えていないというのに、あの男にとって母の罪はすべて私の罪だった。あの男が繰り返す子供の癇癪よりも始末に負えないその行為は、次の言葉ですべて説明がついたのだから。


『その証拠に、お前が生まれてきた』


お前が悪い。全部お前のせいだ。

大きくなるにつれ自覚したのは、私があの男の本当の子供ではないこと。母の“個性”とあの男の“個性”の間に生まれるはずのない私の“個性”。両親のどちらともつかない力を生まれつき発現させてしまった時点で、私たちの関係は完全に終わってしまった。

私は母が浮気相手と作った他人の子供であると、その浮気相手から受け継いだ忌々しい“個性”だと、あの男は理解してしまったのだ。その怒りは本人以外に推し量れるものではない。母はあの男の怒りを恐れて去り、残された私は憎しみの捌け口になる。母が他の男と愛し合ってできた、裏切りの証拠。そんな唾棄すべきものに、どうして愛情や慈悲の一片だって抱けるだろうか。

当たり前に、私の家はおかしかった。余所と比べるまでもなく歪な家族だった。それが、私にとっての普通の家族。少なくとも、あの時まではあの男は私の家族だった。そのはずだったのに。


『【お父さん、私を……――】』


壊したのは私のほう。

本物なんて分かるはずもないのに、求めて、縋って、そうしてぐちゃぐちゃの台無しにした。言ってはならないことを、やってはいけないことを、私はあの男にしてしまったのだ。



「【私を好きになって】」



望んだものは当たり前に手に入らなかった。幻は現実になる前に一瞬で地に落ちて、自分を守るための醜い盾に成り下がった。醜い盾は外れない枷に形を変えて私の足を繋いでいる。重く、重く、不自由なまま。私は細く、息をしていた。


ああ、息苦しい。


灰色だった朧げな視界が徐々に色を取り戻していく。茜色に染まる、私と彼の二人きりの教室。今まで何度も犯してきた失敗。久しぶりに出てしまった悪癖。それでも舌に染み付いてしまったその言葉は、簡単に相手の元へと飛んでいく。耳から頭に滑り込んで、相手の意思なんてお構いなしに、薄っぺらな感情を植え付けるんだ。


「…………漂依?」


鋭い眼光。顔の大半を覆う白いマスク。屈強な腕と、そこから生える触手。大きな体躯の男の子が私を見下ろしている。確か、昨日のヒーロー基礎学の時、少しだけ話した人。轟くんとコンビを組んでた、名前は……、


「障子、くん」


恐る恐る目を合わせた瞬間に、彼の小さな瞳が少しだけ泳ぐ。一つの触手の先にできた口が言い淀むようにもごもごと変な動きをする。それはどうしても昨日の堂々とした障子くんの態度とは違って見えた。動揺してる。彼自身、自分がいつもと違うことに気付いている。

それが決定打。私の“個性”がちゃんと効いてしまったのだと、私に知らせている。


「ぁ、ぁの、」


それでも、まだ救いはある。私はあの時の私じゃない。今はちゃんと、自分の“個性”を制御できる。冷静に、慎重に、息を吐いて、深呼吸して、それで、それで? あれ、どうすればいいんだっけ? どうしたら、許してもらえるんだっけ? あれ、あれ?


「っ漂依? 具合でも悪いのか!?」


目前で触手の先の口が早口気味に聞いてくる。その時、私は自分の顔が何かで濡れていることに気付いた。涙だった。


「ぁ、ああ、あああ」


どうして泣いているのか自分でも分からない。体調はいつもどおりで、気分は言うまでもなく最低で。どうすればこの涙が止まるのか見当もつかない。それでもおでこを障子くんに触られて反射で震えるくらいには意識ははっきりしていて、ぼやけた視界の先で使っていない触手を持て余す様子も見えていた。体は全身で混乱して固まっているのに、頭のどこかでは嫌に冷静で、逃げることは許さないというように現実を見せつけてくる。

早く、早く解かないと。いけないのに、分かっているのに。早く泣き止んで、謝って、出来れば忘れてもらって、それで、そうして、なのに。涙は止まらずにマスクを湿らせる。ガーゼが頬に張り付く感触が生温くて気持ち悪い。このままにすればすぐにでも使いものにならなくなりそうだと、冷静な私が呟く。その呟きを拾えるのは私だけで、障子くんは何も知らずに突然泣き出した私の心配をしてくれる。自分が何をされたのかも知らずに、私なんかを心配している。


「っごめん、なさい、ごめ、ご、めっ、なさい」


しゃっくり混じりに出た謝罪が相手に伝わったのか、とか。そんなことは頭にない。ただ許してほしかった。もうやらないと誓ったことを簡単に破った私を。許してもらって、責めないでほしくて。“個性”を解くという最優先事項が頭からすっぽりと抜け落ちる。他人に迷惑をかけて、他人を不幸にしてきたくせに、まだ自分のことしか考えられない。いつまでも心は空っぽで、それでいいんだと本気で思っている。そんな自分が、たまらなく嫌い。

完全に自己嫌悪に陥ったその内に、障子くんのたくさんの手が私の体に伸びてきた。


「ひっ」
「わ、悪い! 保健室に着くまで我慢してくれ!」


一瞬の浮遊感のあと、六本の腕が私を覆うように抱き抱えてくる。腕の間の皮膜のようなもののおかげか、妙な安定感がある。そして壊れ物か何かでも扱うような柔らかい手つきが私の罪悪感を刺激した。

全部私が悪い。全部、全部悪い。理解しているくせに、まだ男に体を触られている感覚に震えが止まらない。保健室に行くと聞いたのと同じ頭で、逃げられないように捕まってどこに連れて行かれるのだろうと恐怖する。厚い胸板に寄りかかることしかできない体勢で、彼のブレザーに私の涙が染み込んでいく。それと同時に、彼の心臓の音が肉と皮を通して私の鼓膜を打った。とくんとくんと。早く、早く。

早歩きで進んでいく誰もいない廊下。夕日は変わらず室内を照らしていて、涙で滲んだ目には眩しい。


「障子くん、は、私のことっ、どう思う?」


唐突に口から出てきたその言葉は、自分を安心させたいための言葉。もしかしたら。彼は私の“個性”にかかっていなくて、これは善意のみの行動かもしれない、なんて。虫が良すぎる妄想に望みをかけている。楽観というより願望に近いそれが、現実になることをじっと祈って。


「自分でもよく分からないが、放っておけないとは思う」


ギュッと力の増した手。マスクと髪の隙間から覗く赤らんだ目元が、私を絶望に突き落とした。
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