のろい



フラフラとした足取りでなんとか辿り着いた教室。賑やかな声が溢れるそこから私だけが浮いている。いつものことだった。なのに、今はいつもよりそれが気になった。

乱れそうになる息を自分の席に座って整えても、心臓あたりに染み込んだ不安感が喉を圧迫してくる。気分が悪いとか。機嫌が悪いとか。そういう次元じゃなく、どこかもっと遠い、体に刻まれた記憶が引き起こしている。それがどうしようもないことも、前から分かりきっていたはずなのに。ドロドロのグチャグチャした感情が私の中で弾けて縦横無尽に暴れ回っている。


『芳……芳……』


あの声が、鼓膜の奥から這い出てきた。



「やっぱり委員長は飯田くんが良いと……思います!」


フッ、と。緑谷くんの大きな声で底に沈んでいた意識が明るい現実に引き戻される。それに続いて教室中に伝染するクラスメイトたちの私語も私の耳に入ってきた。

そこかしこから聞こえてくる内容をまとめると、お昼休みにマスコミが校内へ不法侵入してきて、その混乱を飯田くんが治めた、というものらしい。初耳だった。警報が鳴ったりしてかなりの混乱があったようなのに、私の耳にはそんなものはまったく聞こえなかったんだ。あんなボソボソ喋りがダイレクトに聞こえたくらいだ。あそこからそんなに離れていない場所で騒動があったのに、気付かない私の方が異常だった。そして、あの場所に突然現れて霧と一緒に消えていった彼も。

もしかして、しがらきとむらはマスコミだった、とか?

一瞬だけ浮かんだ可能性を自分で考えておいて鼻で笑いかけた。そんな馬鹿な。あんなにも禍々しいオーラを出しておいて、ただの一般人であるはずがない。私が嫌いな男だから、とか、そういう理由だけでは釣り合わない怖気が走る。だからといって、この学園が簡単にヴィランの侵入を許すわけもなさそうで。

じゃあ、彼は本当に何だったんだろう。

得体の知れないものほど恐怖は煽られる。いっそ幽霊だったと言われた方が納得のしようがあると思ってしまうくらいだ。

深く考えるほど黒板に向いていた顔が徐々に下がっていく。それに従って瞼も重くなっていった。そういえば、昨日はあんまり眠れなかった、ような。教室の喧騒がどんどん離れていって、気が付くと私は眠ってしまっていた。

それが間違いだったんだ。



「……い…………おい……漂依……」


肩が揺れる。揺らされる。掴んでいる。この手は誰のだろう。厚い布越しで伝わる体温。直で触られているわけじゃない。力だって全然入ってない。


『芳……』


重なる。聞こえる。あの声が。あの男が。まだ私の中に残っている。思い知らされる。これはなんて夢なんだろう。


『可哀想になあ……』


なんて悪夢なんだろう。


「起きろ……もう…………」

『可哀想に……アイツがちゃんと生んでやれなかったせいで、こんなに小さくて……俺がいないと生きていけないんだもんなあ』

「おい……漂依……」

『可哀想なヤツだ……本当に、可哀想に』

「授業終わったぞ、そろそろ起きろ」


誰かの声と、あの男の声が交互に聞こえる。同じような声音で、私に話しかけている。

同じ? 違う。違う。あの男は、こんな手をしていなかった。痣ができたって血が出たってお構いなしに引き倒すようなヤツだった。罵倒しかできないような役立たずの口。どうしようもないクズだ。クズ。クズ。なんでまだ。消えないの。もう思い出したくない。忘れさせて。いつまであの男を引きずるの。なんで忘れたいことを忘れさせてくれないの。もういやだ。

いやだ、聞きたくない。


『なあ、芳』


聞きたくない見たくない触るな怖い気持ち悪い嫌だ怖い来ないで気持ち悪いヤダ怖い憎い大嫌い怖い憎い離して触らないで忘れて怖い黙れ怖い気持ち悪い気持ち悪い怖い憎い憎い怖い離せ来るな気持ち悪い憎い怖い怖いキモい怖い怖い怖い怖い怖い怖い恐いコワイコワイ嫌コワイコワイこわいこわいこわいこわいいやだこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい!!!!!!!!



『俺が守ってやるから、ずっと、一緒にいような』



最低な人間が、真っ当な言葉を囁く。真っ当な愛の言葉を囁く。


「ぃ……」
「漂依……?」


そうさせたのは、結局、


「いや……ッ」


現実にあの男の影が降りてくる。

あの男はこんな髪をしていなかった。こんな目の色もしていない。足は、背は、顔は、声は、服は? 目を開いて、見上げた先にいたのはあの男ではなかった。あの男じゃない。分かってる。分かってる? 誰かに触られているんだよ? 男が、私に触っているの。怖いでしょう? 痛いのはもうイヤ。嫌われるのもイヤ。罵りなんて聞きたくない。イヤ。怖い。怖いよ。イヤだよ。私は、私、わたし、


早く、私のことを、


「【ーーーーーーーー】」


好きになってもらわないと・・・・・・・・・・・・



目を瞑って、開いて、その先にいるのが誰なのかも知らずに。ただ怖いという気持ちに従って、無差別に、無意味に。私は呪いを掛ける。

誰かに必要とされたかった私の、呪いの言葉を。何も知らない誰かに浴びせ掛けたんだ。
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