在りし日の子供



私の家にはテレビがなかった。

磨り減った畳にちゃぶ台。狭い台所のシンクに溜まった食器がいつ使われたものか記憶にない。昔は母が家事をしていた気もするけれど、私が四歳になる前に出て行ってしまったから。台所に立つ人はいなくなってしまった。

薄ぼんやりとした朝日がぼろぼろのカーテン越しに部屋の中を照らす。春は好き。日の出が早くて暗い時間が短いから。冬ほど凍えなくてもいいし、夏ほど暑さに喘ぐ心配もない。空きっ腹から何度目かの悲鳴が上がり、軋む体を鞭打ってランドセルを背負った。もう学校は空いてる時間だから、教室に行ってしまおう。ベランダに隠していた靴を履いて外に出ようとドアノブに手をかけた。ドアは、私が力を入れるより先に開いていた。


「チッ、起きてやがったか」


朝日が逆光になって顔が見えない、大きな男の人。本当はもう思い出したくないだけなのかもしれない。腕を無遠慮に掴まれて、引きずられて、私は、どこに連れて行かれるんだろう。この人に、また何をされるんだろう。お腹が空きすぎて意識が朦朧とする。頼みの綱は上手く扱える気がしない。震える気力も体力もないまま街の暗がりに引きずりこまれる寸前、目の前に見知らぬ誰かが立ち塞がった。


「その子をどうするつもりですか」


私の家にはテレビがなかった。

私はヒーローというものを知らなかった。



「私と同じような境遇の人の支えに、力になりたいので」


自分の口から吐き出された言葉がそのまま自分の首を絞め殺そうとしてくる。この気持ち悪さはいつぶりだろう。ちゃんと本心を言ったつもりなのになんだかとっても薄っぺらい。CDから剥がされたフィルムみたいにペラペラで、ゴミ箱に向かって投げたはずのそれが空気抵抗に煽られて床に不時着したような。そんなもやもやしたものが、簡単に頭に浮かぶようになってしまった。でも、おあいこだよね。本人が釈然としない解答で簡単に満足して頑張れよって笑顔になる先生も、とっても薄っぺらくて、とっても気持ち悪い。

この世界はCDと一緒だ。フィルムに越しに見えるものが全部真実だと信じ切ってる。そのフィルムが本当に透明なのかも分からないのに。外付けでプリントされたロゴや、バーコードで表示される値段がカバー本体と同化して見える。本質が他の何かで覆われている。

この世界はゴミに覆われてる。

“個性”というラベルを貼られた私たちは、それが絶対のものとして生きていく。“個性”によって決められたレールの上を、踏み外さないように走らなければならない。もっと昔の人には“個性”なんてなくて、みんな好きな道を歩いていたらしいのに。私たちはこんな運命じみたものに縛り付けられて、囚われていることにも気づかないで進み続ける。

私がやっとそのことを理解できたのは、もう自分の“個性”にうんざりしつくした後だった。うんざりする時期をとっくのとうに過ぎ去って、これからやるべきことに目を向け始めていた。私にはやりたいことがあったから。そのための踏み台をゆっくりじっくり考えて、そうして決めたんだ。


「ヒーローに、なります」


それが一番いいと思った。
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