ワンダーランドに逃げられない



『君って、そこらの雑魚よりよっぽどヴィランらしいぜ』


私の“個性”を身をもって知った人たちが私を蔑む言葉。
罵倒して懇願して憤った末の言葉。
彼の言葉はそれによく似ていた。

全部が全部ナイフみたいに突き刺さって、痛い痛いと泣いたって誰も助けてくれない。だって、どうにかしようとしてくれた人たちも気が付いたら同じ側の人間になってしまうんだ。だからますます一人でどうにかしなくちゃいけなかった。だけど結局、私にはどうしようもできなかった。

もう何をしたって無駄。私は悪くない。全部この“個性”のせいだ。全部、あの男のせいだ。そう自分を慰めると、ナイフが針くらいの痛さに変わった。見て見ぬふりをすることはとても楽だ。誰かのせいにすれば私が重荷に感じることなんてない。全部誰かに押し付けて、手ぶらで可哀想な悲劇のヒロインになってしまえば良かったのに。そうじゃないことに気付くのも早かった。ふとしたキッカケで周りに目を向け、自分を客観的に見た瞬間に、私は悲劇の舞台から引きずり降ろされる。私は悪くない。本当に? 全部あの男のせいだ。本当に? 自信を持って断言できる? 胸を張って同じことを言えるの?

いじめられる方が悪いという暴論は、私に限っては確かに正論だった。

見ないふりをすることでしか心の安寧を保てなかったくせに、私にはふりですら耐えられない苦痛になった。今まで針くらいだと思っていたそれは結局ナイフでしかない。痛みに慣れたところで、傷はそれ相応に残っている。生傷を背負ったまま、振り出しに戻った状態で足掻いてここまで来てしまった。それが私というどうしようもない人間だ。

今までそう思っていた。それでも私は、まだ見て見ぬふりをしていたんだ。

彼は、しがらきとむらは私の“個性”を知らない。知らないはずの人間でさえ、私を敵らしいと言う。その事実は大きな波紋となって私の心を揺さぶってきた。

私はまだ、制御できなかった“個性”のせいであんな差別を受けたのだと思っていたんだ。この“個性”の一点だけに私の汚点が詰め込まれているんだって思い続けて、そうじゃないとおかしいと自分に言い聞かせてきた。けれど、もしもそれが根底から間違っていたら? 今までの言葉は私の人格そのものに向けられた言葉で、私が本当にこの世界にとっていらない子だったとしたら? どんなに足掻いてもヒーローに粛清される存在にしかなれないとしたら、だとしたら、私は……。

鞄の底で眠る紙切れの存在が頭の片隅をかすめた。


結局、私がその場から立ち上がれたのは予鈴が鳴ってからだった。お昼休みだからというにはうるさすぎる廊下に疑問を持つことなく、ただ足を動かすことだけに集中する。歩くことで深く考えないように、何かから逃げるように。そうして視線が足元に落ちていたせいか、途中で誰かにぶつかってその場に尻もちをついてしまった。


「わ、ごめん! ……漂依さん?」
「尾白くん……」


たまたまぶつかった相手にしては出来すぎだ。


「大丈夫? どこかぶつけてない?」
「大丈夫……」


差し出された手。普段なら無視するそれに何も考えずに手を重ねる。固い肉刺のある手のひら。関節の太い指。私よりも大きな手。触っただけで分かる。これは努力してきた人の手だ。よっぽどのことがあっても折れず捻くれず、まっすぐに努力してきた人の手。ずっと目標に向かって突き進んできたんだろう。そのまま引っ張って起こしてもらっても、なんとなくその手を握ったままぼんやりと見つめ続けた。


「あの、漂依、さん?」
「尾白くんの下の名前ってさ、」
「うん?」
「何て言うんだっけ」


ぼんやりついでに緩んだ口元から突いて出たのはさっきの話題を引きずったもので。手に視線を向けたまま、対して意味もなく訊いていた。握って形を確かめていた手が僅かに震える。それが尾白くんの戸惑いだと気付けるほど、私に冷静さはなかった。


「猿夫だよ、猿に夫で猿夫」
「ましらお」
「っ、あー、うん、はい……」
「いい、名前だね」
「へっ!?」


本当に、いい名前。

名は体を表す、を地で行っている。猿のように長くて白い尻尾は尾白くんが親から授かってきた大切な“個性”なんだろう。彼に限らず、そんな人がこの世界には溢れている。


「すごく、羨ましいよ」
「漂依さん? どうしたの、いきなり」
「本当に、尾白くんが羨ましい」
「そっ、れは、嬉しいけど」


いつもよりもはっきりしない尾白くんの尻尾が左右に揺れる。こんなに俊敏に動いているのは体力測定以来だなあ、と思ったあたりで。

ようやく、今自分が何をしているのか気が付いた。それほどさっき会った彼にストレスを与えられたのか。今まで注意していたことを一つならず忘れて、自分が今、手で触れているのは、男の子の手。あんなにも嫌悪していた男の手だ。それを無意識にずっと握っていた。その事実に潜んでいた感情がいきなり動き始める。


「漂依さんの、っ芳って名前も、その」
「やめて」


続く言葉の意味は、聞かなくても分かった。


「それ以上言わないで」


握っていた手をゆっくりと離す。その動作ですら私にとっては慎重にしなくてはいけないことで、自分の方の手は小刻みに揺れていた。自分が男の手をずっと握っていたことがとてもではないけど信じられないのだ。そのまま和やかにしゃべっていたことは本当にありえない。


「手、握ってごめんなさい。さっきぶつかったのも、ごめんなさい」


尾白くんの顔からネクタイの結び目に視線を移して、口元でもごもごと小さく口にする。


「漂依さん? え?」


それで終わり。尾白くんの反応も見ないまま、彼の横を通り過ぎる。その間も、自分が何をしているのか曖昧だった。

落ち着け。落ち着け。大丈夫。何も始まってない。まだ大丈夫。大丈夫。まだ。

もうすぐ本鈴が鳴る、それまでに気持ちを落ち着かせなければ。未だざわざわとうるさい廊下で、同じくらい騒がしい心臓がとても鬱陶しかった。
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