My name



目の前に突然現れたスニーカーが、アスファルトのヒビから生えるタンポポを踏みつける。


「今日は天気がいい……太陽が馬鹿の一つ覚えみたいに輝いてて、うざったい雑草もそれに寄ってくる虫けらも元気でいやがる……ジメジメした陰キャラ御用達スポットだと思ったら、期待を裏切ってこの清々しさだもんな……マジで最高だぜ……

……サイッコーに、サイッテーな気分だ」


その音でようやく、そこに誰かが立っていることを知った。

そんなにぼんやりしていたわけではないのに、人が近づいてきたのも分からないなんて。いったいどんな人なのかと細い足首から視線を上に移す。くしゃくしゃの髪。不健康そうな肌をした、痩せぎすの男の人。逆光で黒く塗り潰された顔の、口元だけが綺麗に歪んで見えた。制服じゃない。明らかな私服。先生? それにしては現役プロヒーローって感じでもない。だからといって来客の名札も提げられてないし。

この人はいったい、誰なんだろう。


「で、俺は何してんのか訊いたんだけど」
「ぇ……お、お昼、食べてます」


得体の知れない彼は、少しだけ不機嫌そうな声で呟いた。唇だけで完結したようなぼそぼそ喋りなのにほとんどハッキリと言葉の意味は聞き取れる。それに正直に返事をしてしまったのは、いったいどうしてだったのか。


「何これ、モルモットの餌かよ……おえ、人参あるじゃん……」


サラダの中から器用に鶏肉だけを拾って口に運ぶ。咀嚼している様子さえ何故だかよく見えない。


「いつもひとりで食ってるの?」
「そう、ですね」
「ふうん、トモダチいないんだ」


嫌な言い方をする人だ。それでも反論する気が起きないのは、含まれた感情に嘲りが入っていなかったからだと思う。だから私はプラスチックのフォークを置いて彼の言葉に大人しく耳を傾けられた。律儀に会話を続けようとしてしまった。彼は出していた手をポケットに突っ込んだまま、再び仁王立ちでこちらを見下ろす。興味の薄そうな態度でもこちらに意識を傾けているのは明白で、私は首を痛めながら見上げるしかない。やっぱり、影になった顔はよく見えなかった。


「そうだ、名前は?」
「え、あ」
「名前、なんていうの?」
「……漂依芳、です」
「へえ? 芳、ねえ……変な名前……」


そう呟いたっきり、彼は黙り込んでしまった。ただ時たま首や腕をガリガリと掻きむしっているだけで、次の言葉が出てこない。彼は、何を思って私に声をかけたのか。それどころか、ここまで会話を続けてしまった彼が本当は何者なのかすら私は知らないのに。


「あの、」
「芳って、どういう意味?」
「え?」


あなたの名前は?

そう訊こうとした言葉が敢え無く遮られる。彼が現れた時と同じくらいに唐突すぎる質問に私はポカンと口を開けた。唐突すぎるというのもあったけれどそれ以上に、恐ろしいほど的確に私の地雷を踏み抜かれたことが衝撃だった。何でもない風に、気軽に、気怠そうに、スニーカーの底を振り上げて振り下ろされた。その瞬間、私はさっき踏みつけられたタンポポの気持ちを味わった。

踏みにじられる雑草の気持ちを、久しぶりに思い出した。


「親の“個性”を見ればだいたい生まれてくる子供の“個性”も分かるもんじゃん……世の中にはヒーローヴィラン関係なく“個性”からそれっぽい名前付ける安直なヤツが溢れてる……だから……漂依芳って名前にはどういう意味があるのかなあ、って」


そうだ、この人は深淵だ。顔が見えないのも、真意が見えないのも、底のない暗闇だからだ。だから見ていると不安になる。見えない暗闇の目と鼻の先に怪物が立っていて、今か今かと舌なめずりしていても、私には分からないから。

人の気持ちなんて、所詮分からないことだらけだから。


「それを聞いて、どうするつもりですか」
「どうも……ただ訊いただけじゃん」
「じゃあ、答える必要ないですよね」
「あれ、なんでいきなりキレてるの?」
「キレてない」
「キレてんじゃん……メンヘラかよ、コワ……」
「あなたが変なことを訊くからッ」

「そんなに自分の名前が嫌いなんだ?」


その一言で、叫んだこととは関係なく呼吸が乱れる。肩が大袈裟なほどに何度も上下に揺れて、息苦しさに喉の奥が喘ぐ。心臓が早く脈打つ感覚に思わず手を胸の内に抱き込んだ。


「あれ、当たってた?」


図星を突かれることは、それだけ恐ろしいことだった。

私はこの名前が嫌いだ。名前の通りの“個性”を持つ他人がとても羨ましかった。両親というものからの期待を一身に背負わせる名前が、その期待に応えられなかった自分がとても虚しく感じる。この“個性”を持って生まれてきた意味を私は考えたくない。お母さんとも、あの男とも違うこの“個性”を、私が愛することはない。だってこれはお母さんの裏切りの証しで、あの男の怒りの証しなのだから。

私が必要とされなかった理由をまざまざと見せつけてくるのだから。


「なに、物事には必ず意味がないといけないの?」


苦し紛れに吐き出したそれに、彼はこれ以上ないほどに口を釣り上げた。心底楽しそうな顔をしているのだと、よく見えないながらに感じ取れた。それが気味の悪さに拍車をかける。


「いいや、物事に意味なんてないね」


晴れ晴れとした庭に不自然なほどに黒い霧が溢れ出す。それを背負ったまま、彼は両手を大きく広げて高々と宣言した。


「ヒーローは意味もなく敵をぶん殴るし、敵は意味もなく平和をぶっ壊す。それでいいじゃん。それがいい。世の中なんも意味がないなら、ぐちゃぐちゃのボロボロになっちまえ。それで晴れてオールクリアだ。なんだ、ヒーロー科のくせに分かってんじゃん」
「死柄木弔、そろそろ時間です」
「あーあ、時間切れのゲームオーバー……やっぱギャルゲは専門外だなあ」


しがらきとむら。どんな字で書くのか見当もつかない。けれどハッキリしたのは彼が正規の手段でここに来たわけではないということ。ヒーローとは真逆の、とんでもない存在だということを。冷や汗を浮かべながら嫌が応にも思い知った。今まで私が彼と会話を続けていたのは、この人への恐怖で無意識に気圧されていたんだと。


「いい暇つぶしになったよ……えーと、漂依芳、だっけ?」


初めて覗いた赤い瞳が、じわりと愉悦を滲ませて私を見下ろす。



「君って、そこらの雑魚よりよっぽど敵らしいぜ」



そう言って、彼は霧の中に姿を消した。
← back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -