His lover is hers.



こいつに乗り始めたのは偶然だった。

自転車屋の一際奥の方に大事に飾られている細くておもちゃみたいな自転車。乗るためじゃなく見るために作られたかのようにカラフルで滑らかな線を描くそれが、何故だかとても欲しくなってしまったんだ。

実際はその自転車はロードバイクと言って、飾るどころかぶっ壊すのが目的かと言わんばかりの激しいレースの道具だと知ったのは、自分の部屋の壁に立てかけた後のこと。その頃はロードバイクなんてマウンテンバイクとどう違うのか知らなかったし、ツール・ド・フランスなんてただフランスをゆっくり巡る観光サイクリングのようなものだと思っていた。今思えば恥ずかしいほどに無知だ。

そう、私は無知だった。

その頃の私は、生まれ変わった巻島家の第二子がまさか巻島裕介のものだったなんて露とも思わなかったのである。だからロードは私にとってはお遊びで、ちょっと乗るのには苦労するけど遠くまで運んでくれる道具でしかなかった。同じ名字になったからと遊びで彼の十八番を練習し、形にしてしまうまで、鈍い私は気付かなかった。

彼のダンシングは独特だ。落車寸前の際どい角度までフレームを傾け、戻し、傾け、戻す。進むのかすら危ういそれがどうして速くなるのかは謎だ。謎な、はずなのに。私は遊びとは名ばかりの練習でそれを完成にまで持って行ってしまったのである。

意味がわからない。こんなに重心があっちこっちにぶれて力が逃げてしまいそうなのに、今までのクライムとは比べ物にならないくらい景色が早く過ぎていく。風が厳しく体当たりしてくる。流れ出る汗が冷たい雫になって頬を冷やす。巻島裕介も登坂する時はこんな気持ちだったのかもしれない。こんな、快感を得ていたのかもしれない。私は有頂天だった。誰かと競うのなんて面倒くさい。人前で本気になりたくない。レースになんて全く出る気はなく、私は一人道の上を走っていた。実際、私がその巻島裕介だと知るまでは、の話だけど。


「おい巻島ァ! 今日もそんなデザートみてぇな昼食うのかよ」
「田所っちは何日分の飯食う気だ」
「一食分に決まってるだろーが」


隣同士の席で軽口叩きながら昼ごはんを食べる。口では言わないけどこの時間がとても好きだった。田所っちがいなかったら今もクラスメイトに誤解されたまま遠巻きに見られてたかもしれない。そう考えれば考えるほど、巻島裕介の空いた穴はひどく大きく見えた。


「なあ田所っち」
「んあ?」
「あたしがロードやってるっつったらどうする?」


総北は、選手層が薄い。クライマーやスプリンターが毎年ギリギリの人数しか存在しない。今年だって聞いたところによると三年二人に二年一人。一年は初心者が多くてクライマーはゼロ。それで恐らく、三年に上がる頃には金城と田所っちしかいなくなる。たとえ一年に主人公が入ってきたとして、クライマーがもう一人いなければ優勝なんて狙えない。金城や、何より田所っちの悲願は達成されない。

このことは、私が巻島裕介になった時から変わらない事実なはずなのに、田所っちと長く一緒にいるうちにそれは重荷となって私の気持ちを澱ませる。明るく世間話程度に済ませる気だった。実はあたしもロードやってるんだ。こんな感じでへえそうなのかと流されるどうでもいい話題提供で終わらせたかったのに、口は変な言い回しで滑っていった。いやいや質問してどうすんだよ。そう自分を殴りたくなった。


「そりゃいいな! 今度俺と勝負しろよ!」


だから間髪入れず返ってきたセリフに一瞬頭が追いつかなかった。


「はあ? 田所っち、女相手に本気になれるのかよ」
「女とか関係ねえだろ。俺は巻島と勝負してえんだ」


あぐあぐと口の中のサンドイッチを飛ばさないように喋る田所っち。意外と器用だなってそんなことどうでもいい。


「お前、いっつもつまんなそーな面してっからな。俺が本気の面させてやるよ」


あんた、どんだけ私を泣かせたいのさ。

ツーンと鼻の奥が疼くような感覚と目頭の痒くなるような熱が一気に襲ってくる。何がどうってわけじゃないけど、多分私には目標が欲しかったんだと思う。傷ついても本気になってもいい、目標になれるような人や、ものが、欲しかったんだと思う。それをこの熊男は、昼飯の片手間に投げてきやがったんだ。自分だって今しんどいくせに。タイムに伸び悩んで、無理な減量したり部活辞めようか悩んだりして、つい最近まで自転車嫌いになりそうだったくせに。


「クハッ、生意気っショ」
「ショ?」
「あたし、クライマーだから! 山で泣き言言ったっておいてくからな!」
「ハッ、上等だァ!」


高校一年の秋、半年以上遅れて私は自転車競技部に入部した。


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