She is not right.



ジャージを羽織ってゼッケンを隠し、テントの影を最大限有効活用しながらトイレに行くこと数分。そろりと頭を出して右よし左よしと確認作業は怠らない。怠った結果は既に経験済みだ。

『巻島さん! 昨日のことについて話が聞きたいんだけど!』とマイク片手にグイグイ来られたのはホテルを出た時のこと。ジャージを脱いで赤ゼッケン丸出しになったことをすっかり忘れて取材陣の的になってしまったのだ。あまりの勢いと無遠慮さに、口を開くこともなく即逃亡したことは後悔していない。何言っていいか分からないし、変なこと言って雑誌に曲解したことは書かれたくない。あと箱学の話題が出たら死ぬ。悔しすぎて死ぬか恥ずかしすぎて死ぬか、とにかくいろんな意味で死ぬ。考えただけでも心臓が痛い。向こうも仕事なんだろうけど私の安寧とこの後のレースのためにしばらくはスルーさせてもらおう。押しが強い人は苦手です。

マイクとカメラの存在が見当たらないことを確認。時間も押してることだし、総北のテントまで走らないといけない。どこのチームのとも知らないテントの間を抜けてそろりと通路側へ飛び出した。


「うおっ」


飛び出して、こけた。


「うおっ」


同じような声を出して、近くにいた人もこけかけた。持っていたサコッシュを取り落としそうになったらしく、慌てたような姿勢で静止している。シュールだ。私のせいで脅かしてしまったとはいえ、かなり笑える。


「す、みません。前見てなくて」
「危ないじゃろ。気ぃ付けえ」


口の端が引き攣ったのには気づかれなかったみたいだ。体勢を立て直しつつ、周りに気を配っていると、足元が濡れていることに気づいた。なんだこれ。昨日は晴天だったから水溜りな訳ないし。誰かがスポドリ零したにしてはピンポイントすぎるし。しばらくキョロキョロしていると、すぐそこのサコッシュの底にシミが出来ているのが目に付いた。


「これ、濡れてる」
「は? ……うわ、ホンマじゃ」


オカッパが軽く青ざめながら中のボトルを確認し始める。案の定、ヒビの入ったボトルがあったらしい。青かった顔がさらに血の気が引いて白くなった。だよね、もし傷ついたまま選手に渡してレース中に中身ぶちまけたら大変だもんね。慌ててお礼を言いながら代わりのボトルを取りに行く彼を見送って、私も急ぎ気味にテントまで戻った。

それにしても、何故私にお礼を言うんだ。ここは私とぶつかりかけらから〜とか難癖つけられても仕方ないシチュエーションだったぞ。

さっきのオカッパが善良な性格だったのか、こういうことを思いつく私がひねくれているのか。首を捻りながら戻った先で私のタイムを支えてくれてた田所っちに大のほうかと聞かれた。デリカシーがなさすぎて問答無用のチョップをお見舞いした。バカ野郎。


「今日のオーダーを発表する」


その声の持ち主は、部長ではなかった。

昨日のレースで先輩二人とも脱落してしまったのだ。残ったのは私と田所っちと金城と古賀。四人で、私たちはこのレースを競わなければならない。よって今日と明日のオーダーを発表するのは部長ではなくエースの金城だ。それがいいと、部長自らが申し出た。金城にとってはものすごいプレッシャーだと思う。だって彼はエースとしての役割を果たせなかった責任がある。私たちがいくら気にするなと言っても無理な話だ。その重みを金城は欲しがっているんだから。


「金城」
「ああ、巻島」


各々が各々の愛車を引いてスタート地点まで歩いていく。昨日とは一味も二味も違った緊張感の中、私が彼と話せるのは今しかない。上位の金城は私よりも早くスタートしてしまうし、その間には全国の猛者が厚い壁を作っている。そんな中声をかけられる自信は私にはない。だから今、言うんだ。

一位は諦めろ。

福富とは競うな。

明日一位を取ればいい。

だから、頼むから、


「獲れよ、テッペン」


無事でいてくれ、金城。


「ああ、もちろんだ」


結局、本当に言いたいことは言えないもので。

金城はニコリともしない硬い表情だったけど、瞳は獲物を見つめる目だった。だから本当に、言わなくて良かったんだなと自分を肯定した。私の不安を言ってチームの士気を下げることは流石にできないし、金城の今の気持ちを蔑ろにしていいはずもない。だから、今は信じるしかないんだ。大丈夫、私が赤ゼッケンを取れたんだ。だったら金城が福富を抑えてゴールする可能性だってありえない話じゃない。信じよう。信じよう。信じよう。

大丈夫。そう黙って自分自身に言い聞かせることが勇気だと、その時の私は勘違いしていた。


「行こう、チーム総北」


それは金城に軽蔑されることを怖がった、私の臆病だったのに。

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