She cannot be somebody.
咄嗟に荒らげてしまった声とイライラする気持ちをなんとか抑えてペットボトルの蓋を閉める。とりあえず一人になりたくてここに来たのに、一番面倒なヤツに会うなんてどんだけ運がないんだろ。
このままここにいたらダメだ。深く湿った空気を吸い込んで、帰ろうと立ったところで左手首を掴まれた。もちろん、そんなことやるのは一人しかいない。
「何が不満なんだ……箱学のエースクライマーと同着で、何故そんな顔をする」
「お前、本当に分かんないわけ……?」
やめろよ、マジ、もう勘弁してくれよ。
頑張って押し殺してたイライラが戻ってくる。不快だ。ムカつく。普通考えれば分かんだろ。コイツが、東堂がもし本気で分かんないなら、それは私を見下してるってことだ。ああ、そう思うと余計に腹が立ってきた。
握られた左手を振り払ってから、思いっきりそのムカつく綺麗な顔を睨んだ。
「あたしは、お前んとこのエースクライマーに舐められてたんだよ……しばらく泳がされて、後ろからすぐに抜けるって高みの見物されて、そんで最後に結局並ばれたんだ」
そういうことだったんだ。私は、舐められていた。本気を出すまでもないと思われて、先行するハンデを貰って、逃げ切るだけのポジションを与えられて、それに気づかないまま同じ土俵に立っている気でいた。対等の勝負をしていると勘違いしてたんだ。
女子が、男子と対等に戦えるなんて思い上がりも甚だしかったんだ。
そうだ、私は気付いてないだけで自分が女だってことに多少のコンプレックスを持ってた。どこをどうしたって私が女子なのは変わらないし、男子に侮られることは当たり前で。今まで気付かないようにしていたことが、このインハイのこの勝負で露わになって、爆発したんだ。今まで何度も自分のことを女子のくせにって言ってきたのに、一番そう言われるのを恐れていたのは自分だった。
喉の奥から出てくる本音が、女の私を仲間だと認めてくれた金城や田所っちの前では口が裂けても言えなかったことが、止まることなく外に吐き出されていく。
「アイツに絶対勝てるって自信はなかった。けど、絶対に勝てない勝負じゃなかった。コンディションは完璧で、体力も有り余ってて、残り短い距離を先頭で独走して……相手にハンデまで貰ったのに! あそこで勝てなかったってことは、相手が最初から本気だったら絶対に負けてたってことだ!」
コイツに当たったって何が変わるってわけじゃない。なんの関係もない他人に当たるなんて底が知れることはしたくない。けどコイツが、男で、箱学の部員ってだけでとてつもなく憎い存在に見えた。
最悪だ。惨めだ。
「ここまで言ったら分かるよなァ!? あたしは、相手に舐められたまんま見返せなかった自分が死ぬほど悔しいんだよッ!!」
なんで、泣いちゃうんだよ。
滲んだ視界で、目をまん丸にしている東堂が見える。そりゃ、いきなり女にヒステリックに喚かれて泣かれたらビックリだ。当事者じゃないのに八つ当たりされたら迷惑でしかないだろう。止まるどころか勢いを増してボロボロ落ちてく涙。ぐちゃぐちゃの頭の中の片隅に残った冷静な私が涙を止めようと必死になっている。勝負の世界で泣いたら終わりだ。男でも女でもなくただの子供に成り下がる。そんなの私が許さない。
空いてる左手で隠すように腫れてきた目を拭ったところで、また手を握られた。握られて、引っ張られた。
は?
地面にペットボトルが落ちる。体が疲れていたせいで引っ張られた方向に倒れ、視界が真っ暗になった。後頭部に乗っけられた手にぎこちなく撫でられている。気がついたら私は東堂の肩に顔を押し付ける格好になっていたんだ。
「なに、これ」
「すまなかった」
聞きたいことは謝罪じゃない。
「これどういう状況よ」
「お詫びにオレの肩を貸そう」
「だから、どういう風の吹き回しだよ」
「オレはお前を舐めていた」
ああ、やっぱり。
今は聞きたくなかったそれをすぐ横で聞かされて体が震えた。コイツには二度も勝ってるのに、それでも、女だからってバカにされてたんだ。そう思ったらこの格好からもっと逃げたくなった。けれど頭に乗っけられた手がそれを許さない。
「女子だからじゃない。お前の見た目と、無名校の二年ってところでだ。オレの物差しでお前の実力を見ていた。……本当に悪かった」
ぎゅっと、肩に押し付ける力が強まる。そこからコイツの気持ちが伝わってくるみたいで、不思議と落ち着いてしまった。
「そうだよな、クライマーなら、誰よりも速くテッペン登りてぇもんだよな」
お前もオレも、クライマーだからな。
その声が、手が、力が、私を認めてくれる。無意識ながらそんなふうに感じてしまって、理解してしまって、咄嗟に東堂の背に腕を回してしまった。
「お、おい!」
「わ、悪い、肩借りる……っ」
薄いけど筋肉のある体が少し固い。でも、暖かい。縋りつきたくなる暖かさが、私の心を甘えさせる。結局行き着くところはそこだった。
私は悔しかった。とてつもなく悔しかった。誰かと同時にとった一位なんて欲しくない。私の大好きな山を私一人で取りたかった。私が一番速いってことを証明したい、シンプルにその一つしかなかったはずなのに。女子だハンデだなんだとごちゃごちゃしたモンが絡まって頭をおかしくさせてたんだ。
もしさっき目覚めた時にその場に誰もいなかったら、私はのたうち回っていたに違いない。この頭おかしいんじゃない?って色の髪の毛を引っ張ってぐしゃぐしゃにして奇声あげながら枕を蹴りまくってたに違いない。「このバカ野郎」って自分の足を引っぱたいて、きっと私の気はそれで済んでいた。落ち込んでいる金城の前でそんな醜態を晒すわけにはいかない。私のちっぽけな矜持がそれを許さなかったばっかりに、こんなみっともないことになっている。
それから私は涙を止める努力を放棄して思う存分泣いた。敵校の、次期エースクライマーの肩で泣く抵抗なんていつの間にか消えていて、泣き止むまで宥めてくれた東堂の優しさが本当に有難かった。
「ありがと……」
「う、うむ」
「ちょうどいい位置に肩があって助かった」
「そ、そそそれはオレがチビだと言いたいのか!?」
「あたしより背小さいじゃん……」
「1、2cmしか変わらんだろう!!」
「クハッ、小さいもんは小さいっショ」
「ショ?!」
たわいもない軽口をコイツと交わせるなんてな。いつの間にか出ていた口癖で、自分がリラックスしていることを知った。もう、きっと、大丈夫。
「ありがとう、東堂」
「あ……」
くっつけていた体を剥がして、もう一度お礼を言う。腫れぼったい目のブサイク顔を見せるのは嫌だったから、言ったそばからすぐに部屋まで走ることにした。
買ったサイダーを忘れてきたことに気付いたのは、部屋に帰り着いてからのこと。
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