if/もしも荒北のお姉ちゃんだったら



荒北名前には前世の記憶がある。

薄れに薄れた頼りないものではあるが記憶は記憶だ。荒北名前ではない彼女の記憶は、きっとそのまま今の彼女に引き継がれている。

だから、これもきっとそうだ。


「や、靖友くん、それ」
「あ?」


遠くの高校の寮に入った弟が、長期休暇で帰省する際に持ってきたそれ。

バラバラの細いフレームは見たことがないのに、組み立てられたらどんな形になるのかすぐに分かった。

自転車だ。

青に緑を混ぜたような淡い空色。空。最後に見たのも視界一杯の空だった。痛かったのか、苦しかったのか分からない。距離がいつもより近く感じたのは、それだけ高く跳ね飛ばされて宙を舞っていたのだろう。

ぞわっ。全身に言いようのない気持ち悪さが走る。思わず自分を抱きしめると、袖から覗く手首までびっしりと鳥肌が立っていた。


「姉貴?」


呼びかけられて、ハッと弟の顔をマジマジと見る。

何があったのか──いや、確実に福富寿一と出会ったからだろう。腕の故障で古風なヤンキーになってしまった弟が普通のヘアスタイルになって戻ってきた。サラサラの黒髪、スッキリ一重の下睫毛が長い目元。配置は整っているはずなのに可動域が広すぎる表情筋。好きな飲み物はべプシ。

間違いなく、荒北靖友だ。

自分の弟が漫画の登場人物で、自分が漫画の世界に生まれ変わってしまったのだと。気付いたのは名前が高校二年生の冬のことだった。



***



荒北靖友の姉は、良くも悪くもドライな人間だった。

昔からそこそこ何でもできる人だったように記憶している。勉強も運動も人当たりも。一つ年上であることを抜きにしても荒北以上に優秀な彼女を周囲は何かと持て囃した。

これで荒北が姉を疎んだりしなかったのは、ひとえに男女の性差と両親の育て方、何より姉の性格にある。


『あんなに速い球が投げれるなんて、靖友くんは野球が上手なのね。私、良く分らないけど、先生が褒めてたよ。すごいねぇ、靖友くんはすごい』


当時は恥ずかしくて気のない返事しかできなかったが、本当は少しだけ嬉しかった。すごい姉にすごいと褒められると自分もすごい人間になれたように気がしたからだ。

だが、それが二度三度、何度も続く内に、昔からニオイに敏感だった荒北は気付いてしまった。あれは姉なりの処世術なのだと。


『本当にすごいと思ってるのかよ』


初めて悪態をついてやったあの時、あの表情。

髪色や釣り目以外、本当に同じ遺伝子かと疑うほど愛嬌のある笑顔が消え去って、ほとんど無表情のような困惑を浮かべる。当時中一だった姉の一度も見たことがない反応に荒北の方が困ってしまったほどだ。

それが何のスイッチだったのか。


『靖友くん! 次の試合のお守り! お姉ちゃん頑張って作ってみたの!』


以降、姉の態度は一変する。

祖母が孫を可愛がるような甘やかしが、犬が飼い主にまとわりつくような甘えに変わったのだ。

唯一の苦手科目が家庭科なくせに、裁縫セットで作ったらしいグローブ型のフェルト生地のキーホルダー。春、夏、秋の大会が始まるごとに荒北の部活バックの内ポケットに増えていったお守り。中学に入ってから片手の指の数に達しようとしたそれは、結局四つで打ち止めになってしまったが。

今思えばあれは姉の中二病だったのかもしれない。高校生になっても治らないのはヤバいんじゃないか、と荒北なりに心配していたが、結局放置することしかできない。反抗期で面倒くさくなるくらいなら家族バカな方がまだマシだ。

違和感も当たり前になり、奇行も日常に溶け込んで久しい高校一年の冬。

荒北が正月休みに帰省した時、第二の転機は起こった。


『や、靖友くん、それ』


引鉄は恐らく……自転車、なのだと思う。

荒北が一番荒れていた中三から高一の春までは何度ツラく当たろうとニコニコヘラヘラしていたくせに。福富から借りたビアンキを見てからというもの、表面上の態度はそのままに、ニオイだけが少し変わってしまった。

姉が奇妙な雰囲気を纏わせることは小学生の時に一度体験したことだったので、荒北は見て見ぬふりをした。正しくは楽観視と言い換えられるかもしれない。中学の時と同じように、どうせ放っておけば本人の中でそれなりの答えが出てくるだろう。部活の忙しさにかまけて盆と正月しか帰らなかったせいもある。それでも、その違和感が一年以上続けばただ事ではない可能性も流石に出てくる。

疎外感と、少しの恐怖。

何をそんなに深刻になっているのか。自転車に何かあるのか。たまに漂う暗いニオイに我慢ならなくなって問い詰めると、姉はおどけてこう答えた。


『どうしてだろ。前世の死因が自転車だったとか? ……なんちゃって』


ふざけるところかよ。

姉のことが心底嫌になったのは、後にも先にもあの時が最高潮だった。

結局帰省期間が短かったせいで有耶無耶のまま寮に戻ってきてしまったが。寮に入ってから続く定期連絡(と言う名のラブコール)は続いていたので、あからさまに疎遠にならず、家族間の距離はほとんど変わらなかった。

その姉が、今さら箱根学園自転車競技部の部室前に立っている。


「ンで姉貴がいんだよ」
「あ、あねきぃ!?」


インハイ直前の三年の初夏。今年大学生になったばかりの姉は、来客用の名札を首から下げて無邪気に手を振っている。これに驚いたのは荒北だけでなく、一緒に外周から帰ってきた三年生もだった。主に東堂。


「ごめんね靖友くん、アポなしで来ちゃって。あ、皆さんもお邪魔してしまってすいません。初めまして、荒北靖友の姉の荒北名前といいます。弟がいつもお世話になっています。用事が終わったらすぐ帰りますので、少し靖友くんをお借りしますね」


家族相手とは打って変わり、おっとりお淑やかに会釈する姿は小学生の時に見ていた姉に似ている。なるほど、あれは本当に他人向けの処世術だったのだろう。

サラサラと黒髪に下睫毛だけ長い切れ長の一重、ピンク色の薄い唇が柔らかく笑みを作る。あからさまに荒北と見比べた東堂がまた大仰なリアクションを取った。パーツはそっくりなのに滲み出る表情が整いすぎて全く似ていない。鉄仮面の福富すらぎこちない会釈を返したくらいだ。新開はいつもの食えない笑みを浮かべていたが。


「本当は部員の子に預けようと思ってたんだけど、渡したい物があって」


再び荒北に向き合った姉が、外面を取っ払ったテンションでカバンから透明フィルムの小袋を取り出す。中の白い物体は、これは、


「なんだコレ」
「べプシ!」
「ハァ!?」
「だって自転車競技って自転車以外に何使うか分からないし」
「素直に自転車にすりゃいいじゃねーか」
「お姉ちゃんの不器用さ、忘れちゃった?」
「開き直るなバァカ」


ぺリぺリ小袋の糊を剥がして手に取ったキーホルダーは、昔と変わらずフェルト生地の手のひらサイズ。相変わらずの出来栄えに少しだけ安堵してしまう内心を、荒北は自覚していた。


「中学から上達してねー」
「してるよー。玉留めを生地の裏に隠してるんだよ!」
「玉留めよりも縫い目の雑さをどうにかしろよ」
「えー」


もはや白いマラカスかお好み焼きのヘラにすら見えてきたソレをしげしげと眺めていると、姉が少しだけ深く溜め息をついた。

チラと視線を向けた先にあったのは、じんわりと滲む微笑み。


「もう大丈夫だから」
「何が」
「いろいろと、何か。ふっきれちゃった」
「分ッかんねーよ」


口とは反対に、内心では何となく分かっている。

きっとここ数年の違和感の正体に決着をつけられたんだと。分かっていても分からないフリをして、荒北は唇を引き結んだ。


「インハイ応援に行くね。頑張ってね、靖友くん!」


認めたくないが、きっと、荒北は姉に応援してほしかった。

野球を真摯に打ち込んでいたあの時と同じように、今度も手放しで喜んで後押ししてほしかった。一年の冬に福富から借り受けたビアンキを持ち帰ったのも、彼女に見せたかったからだ。荒北の腐った心をテッペンに上り詰めるための情熱で塗り替えてくれた相棒を──福富のことを話して、あの馬鹿みたいに緩い笑顔で喜んでほしかった。意外と他人にドライな姉が家族にだけ見せるドライじゃない部分を見て安心したかった。

それが三年の大舞台の直前で叶ったのだ。

嬉しくて、照れくさくて、安心して、気付かれたくなくて。眉間にグッと寄った視線もそのままに、ようやく開いた口は拗ねたようにすぼまっていた。


「お前が頑張れバァカ」


精一杯の照れ隠しは失敗した。



***



「ヒュウ。お守りの手作りなんて、いいお姉さんじゃないか」
「うっせーよ新開」
「なるほど、いつもカバンの中に仕舞ってるキーホルダーはお姉さん作だったのか!」
「勝手に人のカバン覗いてンじゃねェ!」
「それにしても不思議な感性だよな。なんでラグビーボールと靴ベラなんだ?」
「ハァ!? どっからどー見てもグローブとバットだろーが!!」
「なぬッ!? クリームパンとフランスパンではなかったのか!?」
「どんだけパン推しなんだよ!! おめェの目も節穴か東堂!!」
「そうだったのか……」
「ほら、寿一も驚いてる」
「嘘だろ福ちゃん!!」



企画へのご参加ありがとうございます! 遅くなってしまってすいません! 梔子ifでもしも荒北さんのお姉ちゃんだったら、でした。転生したのが漫画の世界だったと気付くのが遅かったために「三年のインハイまで距離を取った方がいいのでは?」という自重と「靖友くんに構いたい」欲のせめぎ合いで悶々としているお姉ちゃん、に振り回されて悶々としていた荒北さんです。書きたいことがたくさんありすぎて取捨選択した結果いろいろとすっ飛ばしたお話になってしまいました。楽しんでいただけたら嬉しいです。素敵なリクエストをありがとうございました!

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