海砂成代主は気付かない



「ハンムラビ法典については、もちろんご存知ですよね」


真っ赤な唇はまるで死神のようだった。

濃いアイシャドウと太く引かれたアイライン。長く伸ばしカールされた睫毛が元の大きな眼をより大きく錯視させる。根元まで丁寧に染色された金髪と青いカラーコンタクトを合わせると、生粋の日本人でありながら西洋人形のような美術品の空気を作り上げた。記憶の中の“弥海砂”そっくりの顔が鏡の中で出来上がって、遅まきながら理解したものだ。

本当に、“弥海砂”に生まれ変わってしまったんだ、と。


「私、あれをやりたいんです」


ハンムラビ法典とは理性的な復讐だ。

『目には目を、歯には歯を』……そのフレーズの通り、右目を取られたならば相手の右目を抉り返し、前歯を折られたなら同じ前歯を抜く。そういうやられたのと同じ分だけのみやり返すことを法的に認められた復讐。腕一本失くしたからと言って相手の命まで奪わないように腕一本で話をつけさせる。紀元前という古代文明においてはとても画期的で、なにより冷静な法律を、紀元後西暦2000年代に至った現在に持ち出す。

目の前の探偵にとって、名前はずいぶん野蛮に見えていることだろう。


「どうやって償わせるんです。流石のキラも死人を蘇らせることはできない──はずです」


世界一の名探偵は、察しの良さも世界一らしい。

名前のことをちゃんと調べた上でこの場に臨んでいる。それはそうか。いきなり警察の電話口で『エルとキラの名前を知っています』と言ってくるような女だ。そして、イニシャルの頭文字だけ告げれば驚くほど簡単にこの話合いが実現した。

名前の両親を殺した男は、証拠不十分で不起訴処分になった。

その頃の名前は“弥海砂”に生まれ変わったなんて自覚はなく、不起訴処分になった男は本当に無実で、他に犯人がいるのかと他人事のように思っていた。法廷から退出する最後にニヤッと笑って見えた顔も、きっと見間違いだろうと。けれど今になって分かった。あれは、本当に笑っていた。自分が犯した罪が無実になった喜びを遺族に見せつける、厭らしいゴミ以下の人間だったということを。

デスノートの記憶を掘り起こしてから、名前はあの男に復讐することを誓った。
間接的な復讐。それは名前が有名人になるというだけで直接手を下さない復讐だ。有名人であればあるほど熱狂的なファンや下種なマスコミがタレントの周囲を嗅ぎまわるだろう。それも“両親を殺された過去”など格好のゴシップに違いない。加えて犯人は証拠不十分で不起訴になった男以外に容疑者がいないとなれば、たとえ法の下に無実であろうと……いや、むしろ無実になってしまったからこそ、より義憤やエゴを押し付けてくるに違いない。

人を殺した男が平気な顔で街を歩いている。

日本司法の敗北。法の不完全さの象徴。

殺人犯を野放しにするな。

もはやあの男が本当に殺したか殺してないかなんて関係ない。名前のファンを名乗る人間以外にも好奇心で覗き見るゴシップ好きな人間が、面白半分で男を追い詰める。社会的に死んだも同じ状況にまで追い込んで、弥名前の復讐は為される。はずだった。

キラが、夜神月があの男を殺すまでは。


「キラは私があの男に復讐をする機会を奪いました。あの男が死ぬまで感受するべきだったすべてがパー。死人の尊厳を傷つけたところでなんの意味もない。だから、代わりにキラにすべて受けてもらうんです」
「はい?」
「終身刑です」


名と顔を公開した上で終身刑で生き地獄を味わわせる。

必ず白日の下に晒して死ぬまで牢屋にぶち込むんだ。何をしても、必ず。


「やられた分だけやり返すのであれば、望むのは終身刑ではなく死刑では?」
「復讐の内容が社会的地位の剥奪だったんです」
「はあ……?」


狂人の話は疲れる、という溜め息だった。

それを甘んじて受ける様さえ、きっと気味悪く見えるのだろう。


「それで、私を脅してまで話したかったこととは何です」
「脅すだなんて、そんな」


『名前知ってます』と言った時点で『誰かにバラすかもね』という意味合いも含んでいることは、嘯いた本人がよく知っている。

名前は、自分の話口が相手にとって自己中心的で要領を得ないものだということを自覚している。だからこそ言葉より行動で示す方が早いと、自分の服に手をかけた。

“弥海砂”好みの体のラインが出るフリルブラウスの前のボタンをプチプチ外し、中の見せていいコルセットタイプのブラの、パッドが仕込んである切れ目に指を突っ込む。そして取り出したのは文字通り、猫の額ほどのノートの切れ端だ。

ここに入る前に金属探知機やらワタリによるボディタッチやらで武装していないと分かっているのだろう。無言で名前のストリップを見つめるLには羞恥心の欠片もない。どころか、また狂人の奇行を見せられるのか、という疲れを少しだけ滲ませているように感じた。

相手の無言に倣って、こちらも無言でローテーブルにそれを置く。栄養が偏ってそうなカサカサの指先が、例の汚い物を持つような動作で摘み上げた。


「える、知っていますか」


リンゴを食べない死神もいるんですよ。

と続くはずだった文言は、ソファから滑り落ちたLによって遮られた。



***



こうして復讐相手を奪われた憎しみは元の憎しみに上乗せされて夜神月に向かうのでした。後半へ続く。


「ていうのは建前なんだけどさ」
「タテマエ?」
「そう、本当の目的は別」


Lとの対面から数日後。いつも通りのナチュラルメイクを施した顔、シンプルなAラインのワンピースを着た名前が、真っ黒な画面の携帯を耳に宛てながら混雑する駅構内を歩いていた。


「キラは、関わった人間を不幸にするスペシャリストなの」


朧げな記憶の中で、たった数行で伝えられた奈南川の死。読者の目線では何とも思わなかった死亡宣告が、殺人予告として名前の脳に焼き付いている。

“弥海砂”が弥名前として存在するこの世界で、火口にデスノートが渡る可能性は極めて低い。むしろ名前がノートを手離さないのならそれは限りなくゼロだ。

それでも、過去を変えたことで未来がどう変わるか予想がつかない。予定調和や歴史修正力なんてSFちっくな考えも、漫画の世界なら十分にあり得てしまう。

その不安を取り除くために、名前はキラを殺す道を選んだ。

ノートを燃やさずに所有し続けるのも、わざわざ面と向かってLに会いに行ったのも。全部奈南川を殺させないため。彼の恩に報いるためだ。

夜神月を捕まえる前にノートを燃やすか、ノートの所有権を持ったまま服役させて飽きたリュークに殺させるか。そんなことはどちらでもいい。キラという存在をこの世界から消せるなら、どうだっていい。

そんな名前の徹頭徹尾感情で走った動機をLは信用するだろうか。信用したとして、それを利用する算段をつけられたらひとたまりもない。

同じ感情による動機なら、復讐に狂った女の方が幾分動きやすいと名前は踏んだ。

初手で無関係な法律の名前を出したり、いつもより要領を得ない言葉を選んだり。世界一の頭脳を騙し倒せる気はしないが、一瞬の目眩しならできるだろうと。期待を多分に含んだ初対面は、形だけは対等な協力関係を築く形に至った。

駅の出口を目指して歩くスピードを上げた彼女に、レムは悪気なく爆弾を落とした。


「名前は、ナミカワという男に恋してるのか?」
「…………は?」


思考が一度止まる。

危うく振り向きかけた頭は、僅かにスライドしてショウウィンドウの新作のバッグに目移りしたように装った。


「お前はたまに、ジェラスと同じ目をする」


ジェラス。“弥海砂”に恋をして彼女を生かした死神。

彼が弥名前という全くの別人格である女にも恋するか甚だ疑問だったが、その答えは今彼女が生きていることで明示されている。

その彼と同じ目をしていると言われると、なるほどと深く納得した。


「なら、彼は私に恋していなかったのね」


彼は名前に恋をしたのではなく、愛着を持ってくれたのだろう。

だって彼女が奈南川へ向ける目は、この気持ちは、感謝の塊──親愛でしかないのだから。


「いや、私が言いたいのは、」
「失礼。待たせてしまったかな」


レムが何かを言おうとしたところ、低く柔らかい声がそれを遮った。


「いえ、私も今来たところです」
「そうか、それは良かった」


スーツ姿の奈南川が心なしかホッとしたような表情で名前をエスコートする。駅の近場に留めていた車に乗り込んで、二人と一匹は夕日が差し込む都心を走る。


「誘った私が言うのもなんだが、一人での外出は控えた方がいい」
「え?」
「先週、暴漢に襲われかけたばかりじゃないか」
「ああ、そうでした」


そういえばまだ一週間経ったばかりだったな、という感想しか出てこない。というのも、あれは“弥海砂”のストーカーであって自分のではない印象が強すぎた。

恐らくはそのこともあって待ち合わせで待たせることに不安があったのだろう。いつもよりも分かりやすく表情が変わった奈南川に、気持ち明るい声音を意識しつつ話題を変えた。


「今日はどこに連れて行ってくれるんですか?」
「あ、ああ、今日は、」


名前は、意図的な勘違いをしてるのではないか。

奇妙なことに。人間の感情など疎いはずのレムだけが、一番正しい認識で二人のすれ違いを眺めていた。



企画へのご参加ありがとうございます! 更新が遅くなってしまってすいません! 海砂成り代わりの続きでした。Lとの初対面と、完璧に理解できてるのに主人公の言葉を真に受けて「人間難しいな」と思ってるレムでお送りしました。奈南川さんには淡々としつつも年下の大事な人相手にはあまり踏み込めない不器用さがあったらいいな、と夢見ています。素敵なリクエストをありがとうございました!

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