if/もしもレイシーに成り代わったら
まどろみが続いていた。
夢か本当か分からないままぼんやりとした意識の中で瞬きを繰り返して、やっとはっきり目が見えるようになると、私は全く知らない女の子になっていた。隣にはこの身体より少しだけ背の高い小さな男の子がいて、私の手を軽く握っている。
彼は私を名前と呼んだから、私のことなんだとすぐに思い出す。でも彼が誰かは全然分からない。何て言う名前か聞きあぐねて──“おにいちゃん”。後から考えれば英語圏で兄や姉は名前で呼ぶもので、それで通じてしまったのはおかしなことだったかもしれない。けれどあの時、彼の遠慮がちだった手がギュッと強まって、私は後悔することになった。
あの時、オズワルドは私の手を離そうとしたんじゃないかって。
「名前」
雪が降ると、二人きりだったあの頃を思い出す。
まだ私がただの名前で、兄様がただのオズワルドだった子供時代。短い手足で雪道を歩くのは難しくて、転びかけるたびに手を引いて助けてくれた。兄様だってまだ子供で、握った手はふにふに柔らかかった。そんな年で守らなきゃいけない妹がいるだなんて、どんなに心細かっただろう。いつだって私の手を離して一人で走り去っていけただろうに、兄様は一度だって私の手を離さなかった。
バスカヴィル家に引き取られてから“おにいちゃん”から“兄様”に呼び方を変えた。兄様は少しだけ不思議な顔で、後ろのグレンはニヤニヤした顔で私を見下ろしていた。貴族の家に住むなら口調も丁寧にするべきじゃないの? そういうふうに尋ねると兄様はゆっくり頷いた。グレンはもっとニヤニヤしていた。良く分らない。
寝床があって、ご飯が暖かくて、服が綺麗で、暴力がない。この屋敷に住んでもう十年以上経っていた。その対価を払う時は、もうすぐ。
雪が降ると、手のひらの感触を思い出す。今は剣を覚えて久しい固い感触。それだって私を守るために身につけたモノの一つなのだから、どうしたって厭わしいとは思えなかった。
「にいさま」
握られた手がピクリと震える。あら、兄様が手袋をしているなんて珍しい。公の場くらいしかしないと思っていたのだけれど、今日は何かあったのかしらね。
「名前、こんなところで寝てはいけないよ。風邪を引いてしまう」
「………………ジャック?」
靄がかった意識が浮上する。
妙に明るい曇り空を背負って、私を伺っている金髪碧眼の王子様。ポツポツと寂しく降る粉雪がフワフワの髪に積もっている。きっと私を探しに来てくれたのだろう。いつも座る木陰で冬がどんどん深まっていくのを眺めていた。私の行動なんてお見通しだったみたい。
そういえばジャックと出会ったのもこんな雪の日だった。
「私とオズワルドを間違えるなんて……君を起こすのはいつも彼の役目なんだろうね。妬けてしまうよ」
淡く微笑んでいるはずの瞳は暗く曇って見える。少しだけ初対面の彼を思い出してしまって、思わず握られた手から手を離す。途端に傷ついた顔をするジャックをこれ以上悲しませないために、その悲しい顔を両手で挟み込んだ。
「綺麗な瞳……良く見せて……」
私のと違って素直に綺麗だと思える碧色。
ジャックに声をかけた理由は知っている。彼に自分を重ねてしまったからだ。兄様に手を離されたもしもの私。雪が降る日に置いてかれて、そのまま野垂れ死んでしまう私。
何度もあの小さな手に安堵していた。ああ、一人じゃないんだ、“おにいちゃん”がいるんだって。でも今は後悔している。あの時無理やりにでも逃げていれば、こんな取り返しのつかないことにはならなかったのに。
「ねえ、」
兄様に実の妹を殺させるなんて罪を負わせるなんて。
兄様に一生の傷を残す。そんなの耐えられない。
「私をここから連れ出して」
兄様のためにジャックを使う、そんな最低なことを私はしでかしてしまった。
***
……はずだったのに。
「おはよう名前。今日はお寝坊さんだね。君の寝顔を眺めるのもいいけれど、そろそろ朝食にしようか」
あ、あれ?
「ジャック、家事は私の仕事だって言ったでしょう?」
「私がしたかったんだ。名前が遠慮する必要はないよ」
「遠慮じゃなくって、」
遠慮じゃなくって、なんだろう。
「冷める前に手を付けよう。君がいない食事は味がしなくて困るよ」
綺麗な顔に綺麗な笑みを張り付けてジャックが私をベッドから起き上がらせる。その顔を見るたびに、胸の奥が言いようのない重苦しさを感じた。
これは、罪悪感だ。
ジャックと一緒に手を取って逃げた先は、アヴィスの深淵の、その先。バスカヴィルの民ではない私とジャックが思い通りに時を渡る術はなく、たどり着いたのはちょうど百年後のベザリウス領だった。
伝手も何もない私たちだったけれど、ジャックが持っていたベザリウス家の家紋と当主様そっくりの顔立ちと色彩から傍流の血を継いでいると認められ、僅かな援助と領地の片隅の家をいただいた。それから私たちは夫婦のフリをして一緒に暮らしている。
ジャックはオルゴール職人として、私は妻として。新しい役割の生活を始めて、もう半年が経とうとしていた。
『話したいことが、あるの』
その節目を前にした昨夜。私はジャックに懺悔しようとした。私が兄様に殺されるはずだったこと。それが嫌で逃げ出してしまったこと。その道連れにジャックを巻き込んでしまったこと。すべて話して、そして、
『あの時、本当はオズワルドと逃げたかったんだろう?』
ごめんなさい。そう言いかけた口から別の吐息が飛び出した。
『名前は自分のことに疎いから、きっと気付いていなかったんだろうね』
『ジャック?』
『いいんだ、私はオズワルドの代わりでも、君と一緒にいられるならそれで』
『あの、話を、』
『すまないね。まだ作業が残っているから、今日は一人で寝てくれ』
『待っ、』
早口で言い切って部屋から出ていったジャック。その時やっと懺悔するよりやることがあるんだと遅まきながら気付いた。
私、ジャックと意思疎通ができていない。
自分で蒔いた種とはいえ、どうしようもない馬鹿さ加減にベッドで頭をかかえた。
それがたった一晩前のこと。なのに、ジャックはいつもと変わらない顔で私を不必要に甘やかしてくる。それが彼なりのコミュニケーションなんだと軽く流していた昨日までの自分を叱りたい。ジャックだって、こんなことになって不安だったんだ。
ベッドの端に座っているジャックの袖を掴む。立ち上がろうと腰を浮かしていた彼は、一呼吸間を置いてから同じ場所に座り直した。でも、彼の顔は逃げたくて仕方ない気持ちを隠せていない。だって今の彼は、初めて会ったあの雪の日のように虚ろで、無感動で、縮こまった目をしていたから。
ただのジャックの顔をしていたから。
「私は、兄様に家族を殺してほしくなかったのか、ただ死にたくなかっただけか……自分が何から逃げたのか分からないの」
もしかしたら、私は兄様を理由にあそこから逃げたかっただけかもしれない。どんな理由であれ、たった一人の家族を置いていく罪悪感を誤魔化したくてこんな事態になっている。ぐちゃぐちゃに混ざって、もう何色だったかも思い出せない感情を持て余して、ジャックに縋ったままこんなところまで来てしまった。
「それでも、あなたと逃げたかったのは本当よ」
その分際で、私は思う。
「私と一緒にいてくれて、ありがとう」
ボロボロと、翠玉の瞳から涙がこぼれた。
泣いてる、と認識した瞬間にジャックは私を抱きしめた。
抱きしめるようでいて、ギュウギュウと苦しいくらいに背中に回った手が、小さな子が母親に必死にしがみつくような強さだった。
「そういえば、ジャックっていつから“オレ”を使わなくなったの?」
「いつから、かな。君と別れた後としか、覚えてないや」
「そう、私あの時のあなたも好きよ。生意気そうで可愛かった」
「じゃあ、もう絶対に使わないよ」
「あら、どうして?」
「君に子供扱いされるのは、あまり好きじゃない」
背中をポンポンしている手が止まる。
「これもやめた方がいい?」
「……困ったな。好きじゃないけど、やめられるのも嫌なんだ」
「それは本当に困ったわね」
またポンポンと背中を叩くと、額をぐりぐりと私の肩に押し付けてくる。金髪から覗く耳は真っ赤で、あの率なくなんでも流す好青年が珍しく照れているらしい。
「よしよし、いい子いい子」
「……やっぱり嫌だ」
「ええー? 本当かなぁ?」
「名前!」
まるで昔に戻ったみたいに二人でケラケラ笑いあって、それから冷めた朝食を一緒に食べた。
私がしたことは何も変わってないはずなのに、重苦しさは使命感に変わった。夫婦でも母親でも友達でもいい。
ジャックを一人にしない。
それが兄様を置き去りにしてジャックを巻き込んだ私のするべきことだと、そう心に決めた。
***
「失礼。名前夫人はご在宅か」
「はい、少々お待ちください」
彼が小さな我が家にやって来たのは、それから一月後のこと。
「俺はナイトレイ伯爵家のエリオット。我が主、リーオ=バスカヴィルの命によりあなたを迎えに参った」
そうして私は兄様との再会を果たした。
企画へのご参加ありがとうございます! 更新が遅くなってしまってすいません! レイシー成り代わりでジャックに溺愛されること以外は自由にしていいとのことで、思いっきり好き勝手やってみました。徹頭徹尾ずるい主人公と主人公と一緒ならなんでもいいジャックの百年後への逃避行です。普通の子はレイシーほど死に対して冷静でいられないだろうと思いついた話でした。溺愛の部分がクリアできてるか自信がありませんが、楽しんでいただけたら幸いです。素敵なリクエストをありがとうございました!
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