死人の自覚



「うぇーん翔くーん」
『ウッザ』


携帯に縋りながら寮の自室で転がる帆。学校で憧れの視線を向けられまくってる美少女が電話越しの相手にここぞとばかりに甘えている。実際、精神的に打ちのめされている彼女にはそれくらいの甘えは許されてしかるべきだと開き直っているのだが、彼女の弟からすれば自業自得の一言だった。


『面倒事に首突っ込んだんは自分やろアホ』
「だってだってー! お姉ちゃん知らなかったんだもんー!」
『そのテンション真面目にうざいで』
「ごめんなさい」


真面目なテンションで返され帆は思わず真面目に戻った。たとえ携帯を抱えたままベッドの上をゴロゴロ転がっていたとしても真面目ったら真面目だ。

だって本当に知らなかったのだ、生徒会は夏休みも学校に行かなければならないなんて。待ちに待った夏休みがやってきて、やっと弟と直で会えると思ったのに。

夏休み突入一週間前から鼻歌混じりに荷造りを始めていた帆。入学から三ヶ月と少しでしっちゃかめっちゃかに散らかっていた部屋を何とか片付け、最低限の衣類と必要品を詰め込んで。さあ帰るぞ、と意気込んだそばから先輩の無慈悲な宣告を受けたのだ。その時の絶望感たるや本人以上に推し量れる人間などいないに違いない。


「なんで生徒会に入ったんだろ……」


無防備に目立ちまくったからやろ、と教えてくれる優しさを相手は持ち合わせていない。弟の呆れもなんのその、帆はあと一週間は着ることになる制服を遠い目で見る。水色の可愛らしいセーラー服が今はただ憎らしい。

はーあーと、長い溜め息を吐いたところで、電話の向こうから不意打ちの一言が投げかけられた。


『ホンマに帰って来るんか』
「えっ」


それはまるで、帰って来てほしくないみたいだな、と。


『自分から離れたくせに、まだ帰って来る気ィはあるんやな』


ベッドに転がっていた体が急停止する。ボサボサの髪のまま、上体を起こした顔は決して朗らかなものではない。

見透かされていると思った。

帆が京都を飛び出そうと思った理由は弟のことだった。弟が御堂筋翔というキャラクターであると真に理解できていなかった自分への叱咤。姉というイレギュラーを抱えてしまった彼の未来は、果たして記憶通りの御堂筋翔になるのか、という不安。一度距離を置いて考える必要があると自分で決めて勝手に離れた。けれど、それでさえまだ綺麗ごとで飾り立てられた理由だと、気付いたのはずっと最近のことだった。

本当の本当に抱いていた感情は恐怖。弟のことを御堂筋翔というキャラクターとしか見られなくなるかもしれない自分の心変わりを、彼女は弟に見捨てられることよりも恐れていた。

弟は……御堂筋翔は、姉の恐怖を敏感に感じ取っていたのだろうか。

真一文字に結ばれた唇。凪いだ瞳が右手に収められた携帯の画面を見つめる。

御堂筋翔。翔。翔くん。どれも弟のことで、どれも漫画の中の彼のことだ。思えば帆が弟を好きになったのは母が亡くなった後でのことだった。罪悪感と責任感。そんな重苦しく、堅苦しい動機で弟を甘やかし始めた。家族になろうとすり寄って、甘やかしてもらおうと努力を始めた。不純だ。自分本位だ。最近になって分かる。御堂筋帆はアイデンティティーを確立するために“弟を溺愛する姉”というキャラクターを作り上げたのだ。

たった十年と少し生きただけの子供を利用して、死人の分際でちゃんと現実を生きていこうと必死に縋りついた。無我夢中で掴んで、離さないで、何年も無意識でいろいろなものを踏みにじって、結果的に本当に“弟を溺愛する姉”になってしまった。

帆は相反する二つの自覚がある。心の底から弟を愛し慈しむ姉と、漫画の御堂筋翔と変わりないか監視する前世の自分。どちらも本当だけれど、どちらがより強い思いかは甲乙つけ難い。疑問はいつまでも付いて回る。母の皮を被り、母の代わりを務めようと苦心した数年間ですら本当に彼女自身なのか誰にも証明できない。そもそも一度死んだ人間にそんなものが必要あるのだろうか。何かの間違いでここにいる彼女の存在価値なんて、究極的に言って彼女以外には無用の長物でしかない。

無意識の奥に仕舞ってあった本心に気付いたところで、結局帆の意思なんて遠くに置いて弟を優先させてしまうのだから。


「ごめんね、翔くん」


その言葉は考えるより先に電話口に吹き込まれた。


「寂しかったんだよね、不安だったよね。私、ちょっとだけ、考え事したかっただけなの。翔くんが気に病むことなんて何もないの。私は翔くんのこと、大好きだからね。大丈夫、何度離れたって、そっちに帰るから。翔くんのそばから離れても、一生離れ離れなんてことはないから」


それは、御堂筋翔が見放さなければ、の大前提が必要だけれど。

御堂筋帆は御堂筋翔が好きだ。
帆は翔くんが大好きだ。

漫画のキャラクターとして。血の繋がった弟として。どちらにしてもそこだけは嘘偽りない彼女の本心で、最後に残った救いはたった一つの好きという感情だけだから。


「だから、安心してね」


それは、どちらに対して言ったのだろうか。


「大好きだよ、翔」


いつの間にか笑みを象っていた顔のまま、帆は声もなく自嘲した。


『そういうところが、ホンマ……』
「ホンマ、なに?」
『なんでもないわ、アホ』
「えーお姉ちゃん気になるー! 気っにっなっるー!!」
『またウザくなっとるで書記サン』
「うっ」
『あーあー無駄な時間つこたわ、寝よ寝よ』
「ええー! もっとお話ししようよー!」
『ほな』
「あ、翔くぅーーん!」


プツッと無慈悲に途切れた音。黄色い携帯に縋りついた格好のまま、帆はまたベッドに転がった。

自覚だのなんだの真面目に考えたところで今の彼女の願いはただ一つ。弟に会いたいということだけなのだから、彼女の憂鬱はしばらく解消されそうにない。ボサボサの頭をさらにこねくり回しながら帆は唸り声を上げた。美少女のびの字もない光景だった。



***



『大好きだよ、翔』


悪態をつかれて黙ったかと思えば、そんなことを明け透けに言ってみせる。そこで泣くなり怒るなりすれば可愛げがあるものを、まるで義務か呪いかのように好意を言葉にする。こちらの機微に敏感なくせに、無神経とすら思える態度で簡単に好きだと言ってくる彼女が、御堂筋帆という姉が御堂筋翔には理解できない。

理解できないものは、人に恐怖を植え付けるものだ。


「ホンマ怖いわ、アホ」


そんなこと、口が裂けても言ってやらないけれど。
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