不器用なワルツ



独特の騒音が漏れ聞こえる自転車競技部の部室。そばを通るだけで腹の底に響くその音が帆はとても好きだった。何故ならそれはここ三年毎日聞き続けた三本ローラーの音。弟が夢に向かって漕ぎ続けている証拠であり、痕跡であり、そして彼の輝かしい才能を支える希望の音だったから。帆はその音に安らぎにも似た喜びを感じるのだ。

だから彼女は箱根学園に入学してからというもの、放課後暇になると自転車競技部の部室に比較的近い空き教室を見つけてそこで勉強する。本来なら勝手な使用は許されるようなものではなかったが、その騒音の中作業する猛者は彼女以外おらず、その教室は万年空き教室のまま。彼女以外が近付くことのない、謂わば彼女だけの秘密基地に他ならなかった。


「こんなもんかな」


一つ大きな伸びをしてからたった今出来上がったばかりのノートを見直す。今日の復習と明日の予習。主要教科だけとはいえ予習復習をその日のうちに学校で行う彼女はまさに優等生の鑑だ。現に今年の箱根学園の入試はトップであったし、新入生代表の挨拶も彼女が引き受けたほどだ。一日目で既に目立ってしまったことは不本意だったが、それも努力の結果といえば仕方ないことだろう。

窓の外を見れば空が薄っすらと茜色を纏い始めている。もう下校時刻も近い。そろそろ帰ろうかと机の上のノートと教科書をスクールバックに片付けていると、ふとあるものが見当たらないことに気が付いた。


「教室に忘れちゃったかな」


入学祝いに買ってもらった黄色い携帯電話。何故か選ぶ時に弟からの無言の圧力で黄色を選んでしまったが、これはこれで可愛いと気に入っている。それがどこにも見当たらない。

そろそろ下校を促すチャイムが鳴ってしまう。急がなければと早歩きで廊下を進んでいくと、前方に大きな背が同じ方向へ歩いているのが見えた。見覚えのある髪色で、あんなにも背が高い人物となると帆は一人しか知らない。


「葦木場くん? どうしたのこんな時間に」
「え、ええ、御堂筋さん?」


バッと。見上げるほどの巨体が俊敏な動きで飛び上がる。そんなに驚かせてしまったかと内心反省しながら、常時下がり気味の眉毛がさらに下がっている様子が少し心配になってしまった。


「私は教室に携帯忘れたんだけど、葦木場くんも何か忘れ物?」
「うん、オレも携帯。いっつも忘れちゃって、それで怒られるんだ」
「怒られるの? 誰に?」
「先輩とか、あと友達」


同じクラスなので隣りに並んで教室までの道のりを歩く。葦木場は終始下がり眉で訥々とおぼつかない喋り口だったため、帆はだんだんと不安を覚え始めた。


「葦木場くんって、もしかして喋るの得意じゃない?」
「へっ!?」
「ちょっと喋りにくそうだったから」


本当は私のこと嫌い? と聞くつもりだったが、本人に面と向かって嫌いと言えるような性格ではないだろう。それを見越しての質問に、案の定、葦木場は手を忙しなく振って弁明するように言葉を連ねた。


「み、御堂筋さんがオレの名前知ってると思わなかったから、緊張して」
「同じクラスだもん。それに葦木場って名字が珍しくって」
「そっか、そうなんだあ」


漫画で読んで知っていました、とはさすがに言えない。


「頭良い人ってみんな、なんかオレと話すの疲れるって言うから」


そう、困ったように吐き出した葦木場に、今度は帆が眉を下げる番だった。葦木場のよそよそしさは今までの経験から来たもので、人の無遠慮な言動から積み重ねられてしまったものなのだろう。頭の良い人、と大きな括りの中に入れられた帆はどうしたものかと頭を捻った。


「私は葦木場くんと話してみたいと思ってたけどな」
「う、うそ!」
「本当」
「うそだあ!」
「本当だって」


うそ、ほんと、をしばらく繰り返しているうちに教室に着いてしまった。葦木場は窓側の方、帆は廊下寄りの自身の席に歩いて行く。お互い目的のものはすぐに見付かって、しかもどちらも寮生だったため帰り道までまったく一緒だ。結局同時に廊下を出て、また並んで歩くことになる。


「葦木場くんって背大きいから、遠くからでもたまに目で追っちゃって、どういう人なんだろって興味があったの」
「……好きで大きいわけじゃないのに」
「でも、それって才能だよ」
「才能? これが?」
「うん、才能」


今度の葦木場はとても嫌そうに顔を歪めていた。行きよりも今の方が自然に会話ができていることを感じながら帆は続ける。


「背が大きいこととか、体が大きいこととか、人より特出してることって、つまり才能じゃない? お相撲さんになるのだって太る才能がないとできないんだよ? 普通の人はいくら食べたって100キロ以上になるのは無理らしいし」
「オレ、お相撲さんにはならないよ」
「例えばの話だよ。葦木場くんの才能は背が大きいことって考えれば、自分の身長も好きになれると思うよ」
「そうかなあ」
「そうだよ、きっと」


半信半疑、いや、八割方疑っている風な葦木場を見上げて、もう一度肯定の言葉を重ねる。


「だと良いなあ」


小さな呟きだった。けれどそれはあといくつかの季節の後には叶っていることだと、帆は知っていたから。笑って頷くと葦木場は曖昧な笑みを浮かべて頷き返した。そうだったらいい。本当にそう思ったからだ。

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