綺麗と汚い



車輪が回るごとに反響する騒音。薄暗く、窓から差す光りも仄かな夕暮れどき。学校から帰ってすぐに締め切られたガレージに来た帆は、騒音の超本人である弟を見つけて大きく口を開けた。


『ただいまー!』


三本ローラーを熱心に回していた翔は、帰ってきた姉を一瞥しただけで返事はしない。けれど帆にはそれだけで十分だった。一旦ランドセルを置きに二階の自室まで行き、下敷きと勉強道具一式を持ってガレージへと戻ってくる。いつも座っているベンチに腰掛けて、耳がおかしくなりそうなほどの騒音を聞きながら課題に手を付けた。何かを言うでもなく、どこかに行くでもなく。ただ同じ空間を共有する、それだけでいい。それが彼女にとっての新しい普通で、母がいなくなってから続く日常であった。


『ねえ、翔くん! 今日のノルマ、終わったらお絵かきしましょー!!』


これにはもはや一瞥すら寄越さなかったから、彼女は声が届いたのかも分からない。それでも返事を聞く前に本人の中では決定事項で、そう言ったきりプリントへとまた向き合う。学校と変わらずの朗らかな顔が、彼女の機嫌をそのまま写している。翔は当たり前にそう感じていた。


『なんで、そんなんするん』


ノルマを終えた翔が、視線を明後日の方へ向けながら喋る。ボソボソとした早口も、車輪の回らない静かな空間にはよく響いた。


『先生から、画用紙もらってきたの』


それは答えじゃない。そう言いたい気持ちも心の中で萎んでいく。帆は笑ったまま、翔の顔を見つめる。


『翔くんの夢は?』
『関係ない、やろ』
『私は気になるな。翔くん、何になりたいの?』


じっと見つめると、いつかは根負けしてくれることを帆は知っていた。意識的か、無意識的か。自分の顔が母と瓜二つなことを利用して、彼女はそっと手を伸ばす。弟の柔らかい心の隙間に、癒えきっていない傷の淵に、薬を塗るような手つきで、そっと、撫でるのだ。


『じ、自転車選手』


翔がそのずる賢さを理解できるのは、もっとずっと先のことだった。


『よし、じゃあ、自転車描こう』
『……笑わんの?』
『うん』


同じくらいの大きさの手が翔の手を引く。汗まみれのまま二階まで連れて行き、ランドセルから少しだけ角のよれた画用紙を取り出す。その画用紙に翔は既視感を覚えた。


『夢は誰だって自由だよ。叶えることも、やめることも自由。翔くんは、私に笑われたら自転車選手にならないの?』


いつか、将来の夢を描いた画用紙。目の前で落書きされて、いつの間にか先生に剥がされていたアレと同じ大きさの、真っ白な紙が翔の前で広げられる。そこにクレヨンを滑らせることだって、翔の自由にしていいことだ。差し出されたクレヨンの箱に手をかけた。


『……なる』
『うん』
『ぜったい、なる、から』
『うん、分かった』


翔が言って、帆が頷く。それから日常に変化していく、遠い日の思い出。


『姉ちゃんは……』


ガアアアアアアア


「ん……?」


耳障りな三本ローラーの音が遠くから聞こえる。

夕暮れどきの日差しは思いの外眩しく、寝ぼけ眼の帆には些か優しくない。伏せていた顔を上げ、周りを見渡すといつもの空き教室が茜色に染め上げられていた。広げたままの教科書とノートが腕の下敷きになっているのを見ると、いつの間にか眠っていたらしい。

変な体勢のせいで凝り固まった体を伸ばしながら、どんな夢を見ていたのか記憶を巡らせる。

弟が出てきた。小学生の頃だった気がする。まだ今のような強さもなく、純粋で、誰かに傷つけられるためにあるような危うさのあった少年。可愛い、帆の弟。そんな弟だからこそ、守ろうと思った。彼女がほんの一部だけ知っている無垢な彼を、紙の上じゃなく骨身を持った人間を。抱きしめたか細い体を、触れ合った純粋な心を、守りたかった。その思いは、その願いは、危うさばかりを残して心身共に成長を果たした弟に、今の御堂筋翔にとって必要なものだろうか。

世界に存在するモノを利用できるか否かで区別する黒い眼。そこに映された姉という存在が、どんな風にカテゴライズされているのかは彼自身しか分からないことで。帆はその上澄みのほんの一部をすくって眺めることしかできない。そうしてしっかりと認識しているのは、いつか自分も不要の枠に放り込まれるであろう未来だ。

いつか、不要と判断されて捨てられるだろう時。それができるだけ先のことであるように。

そのためなら、帆は何でもできる気がした。誰かを傷つけることも、誰かに傷つけられることも。どんなことだって彼女の益になるのなら、それは悪ではなく正である。


「やっぱり、私に人望なんてないですよ……」


自分だからこそ己の汚さがよく見えるもの。どれほど幻想で塗り固めたところで、綺麗な額縁の中で微笑む聖女にはなれない。

夏の湿った風が汗ばんだ顔を程よく冷やす。帆だけが知っている運命のあの日まで、あと一年と少ししかないのだと今さら気付いた。

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