黄色くなれ



燦々と太陽が照りつける夏の暑い日。田んぼに囲まれた塗装もされてない畦道を愛車に跨って少年は走っていた。揺れるフレーム、我武者羅にペダルを漕ぐ足の合間からハートのエンブレムがテラテラと輝いている。普段なら天にも昇る心地で風を切るその表情は、心なしか焦りと悔しさで不機嫌そうに歪んでいた。


「なんで、先に行ったんやっ」


やがて畦道が終わり、コンクリートの坂が見え、その上に大きな白い建物が覗く。あと少し。ペダルを漕ぐ足により一層力が入った。砂漠の中のオアシスが、目の前で微笑んでいたのだから。


「うん、それでね、この前の算数のテスト、一個間違えちゃって、98点だったの」
「98点! すごいわぁ、もうすぐ100点やない。頑張ったんやね帆ちゃん」
「でもケアレスミスした」
「もうそんな難しい言葉使えるんね。ホンマすごいわぁ」


病室の前まで来て、少年はヒタと廊下の壁に張り付いた。思わず体が動いた。病室の中からは楽しげな高い声が聞こえてくる。少年はその声が好きで、嫌いだった。なんでそんな楽しそうなん。母ちゃんはボクの母ちゃんやのに。


「あ、翔や」


じっと頭だけ病室の扉から出すとすぐさま少年に気づいた母親が嬉しそうな声を上げた。それに釣られて一緒に話していた少女も、帆もそちらへ振り向く。母親と血を分けたことが一目瞭然なその容姿はどこか困ったようにハの字眉を作っていた。


「ごめんね翔くん、先に来ちゃって。一応起こしたんだけど」
「……ええわ」
「本当にごめんね」
「もう、ええって」


小さな弱々しい声でも三人しかいない病室にはよく響く。そっぽ向いた少年は帆を見ないように母親の元へと歩いていく。パジャマの袖を握りながら今日も自転車で来たことをつっかえつっかえ伝える。その間帆の顔は笑顔の母親と対照的に困りきったまま二人をそばで見つめていた。

少年は姉が嫌いだった。

一つ年上の帆はなんでもできた。テストはいつも満点やそれに近い点数だし女子の中では運動が一番できる。性格も誰にでも社交的で、家庭訪問に来た先生の話を盗み聞きすると褒め言葉しか出てこない。友達だってたくさんいて、休み時間に校庭で見かけると必ず複数人の友達に囲まれている。柔らかい髪質の淡色の茶髪や大きな瞳は絵本のお姫様みたいにキラキラしていて、その笑顔は誰からも可愛いと褒められるものだった。

少年が持っていないものをすべて彼女は持っていた。

だからといって、少年が姉に劣等感を抱いていると言われれば少し検討はずれだと言える。確かに少年は彼女を羨ましく思っていたが、それよりも気に入らなかったのは母親を取られるという一点だけだった。学校で文句無しの成績を納めている帆と会えば少年よりも彼女が褒められることは明白で、少年が置き去りにされることなど想像に難くない。

今日だって。小学校の記念日で学校が休みだからと、普段週末にしか病院に行かない姉が寝ている自分を差し置いて先に行ってしまったことはとても腹立たしい事態だった。確かに起こされた記憶はあったし、二度寝してしまったことは覚醒した瞬間に理解していたけれど。少年は姉に対して責める気持ちしか抱けなかった。

姉ちゃんなんか嫌いや。

もう一度心の中で吐き出して、自慢の歯並びをカチンと鳴らした。少年には母親一人だけが大事な家族で、それ以外の人間なんてどうでも良かったのだ。


どうでも、良かったのに。


その年の冬、少年は大事なたった一人の家族を失った。

別れは呆気なかった。母ちゃんが見に来る。そう信じて全力を尽くしたレースに彼女は来ることはなく、少年が表彰台に立つ頃には病院で息を引き取っていた。世界でただ一つの儚い命は、簡単に消えていなくなった。

しばらくの間、少年は誰とも口をきかなかった。世間一般で唯一の家族とも言える姉ですら、目も合わせない。それどころか少年は姉が前より憎くて仕方なかった。なにせ姉は少年がレースに出ている間母親との最期の時を過ごし、手に触れ、温もりを感じ、言葉を受けて看取っていたのだから。自分にできなかったことを当たり前にやってしまったのだから。


「翔くん」


帆は以前より積極的に話しかけてくるようになった。けれど少年は答えない。無視する。それでもめげない。遠慮がちな体で名前を呼ぶくせに毎日毎日飽きずに家でも道でも学校でも。それでも無視して無視して無視して。いつ諦めるのかと思っていた矢先、それは起こった。


「どうしたの、それ?」
「……」
「また転んだの? 最近擦り傷が増えたけど」
「……」
「ねえ、お姉ちゃんのことはいくらでも無視していいから、自分の体だけは大事にしてね。お母さんが安心できるように元気でいてね」
「……なんや、それ」


お母さん、その言葉だけはどうしても聞き捨てならなかった。


「ボクは止まらへんよ。勝ち続けるんや。こんな体どうなったってかまへん」
「、だめ、そんなことお母さんは望んでない」
「お前が母ちゃんの言うこと分かるわけないやろ! 嫌いや、嫌い! し、死ねっ死ねお前なんて、お前が、お前が母ちゃんの代わりに死ねば良かったんや!」


肩で息をする。思いの丈を叫んだ喉が震えて止まらない。視線を合わせられないで斜め下の床を見つめたまま、だった。両頬に小さな手が添えられるまでは。


「翔」


はっと顔を上げるとすぐそこに潤んだ瞳が少年の瞳を覗き込んでいた。強くも弱くもない力で顔を固定され、少年はその大きな瞳越しに毎日鏡で見ている顔を見つけた。呆然としていた。自分の姉は、帆はいつもどこか一歩引いたところで困ったように微笑んでいる印象しかなかったのに。人に囲まれていつも賑やかな場所にいるのに、どこか寂しそうに微笑んでいる。柔くて弱い存在だったはずなのに。今だけは別人みたいな強い表情で少年を睨んでいた。


「翔、翔、よく聞いて」

「私も翔もお母さんの一部だったの。お母さんから貰った、お母さんのものなの。だから翔がいくら私が嫌いでも、死んで欲しくても、私はお母さんのものを死なせたくない。傷つけたくない。苦しんで欲しくない。それは翔も一緒だけど、けどね、私は翔にも傷ついて欲しくないの」

「翔がどう思っていてもね、私はお母さんと同じくらい翔が大好きだよ。だって翔は私が持ってないものを持っているんだもん」


顔に添えられていた両手に引っ張られ、少年の頭が帆の胸に押し付けられる。母親と違って真っ平らなそこに耳がくっついて元気な心臓の音が鼓膜を何度も叩いた。それは何色にも感じられなかった。幸せの黄色ではない、真っ白な色。けれど不思議と嫌な気はしなかった。真っ白な音を聞きながら目を閉じる。いろんな記憶が頭の片隅から溢れてくる。

姉は、彼女は少年が持っていないものを持っていたけど、少年が持っているものを持っていなかった。彼女は自転車に乗れないのだ。少年が今の愛車を買いたいと言った時、自分の自転車はいらないとおじさんに申し出ていた。本当なら毎日バスで病院に通いたかっただろうに、そのお金も節約すると言って少年にロードバイクを買って欲しいとお願いしていたのを見ていた。いつも母親や親戚に遠慮して何も欲しがらなかった姉が、少年のためにダダをこねる様子はとても目新しかったのに。少年は今の今まで忘れていたのだ。

母の代わりにはならないけれど、姉はいつだって少年を思っていてくれたことを。


「なあ」
「な、なに?」
「もうちょい、このままでええよ」


姉ちゃん。

とくとく、心臓の音が早くなる。ほんの少しだけ、真っ白だった色が黄色に色づいたような気がした。


その少年が、今の御堂筋翔を形作る根幹になったことは言うまでもない。



「なあ帆ちゃん。ボクいつも言うとるよな。こういうことは毎日やらなあかんって」
「う、うん、分かってたつもりなんだけど」
「分かっとらんからこんなことになっとるんやろアホ」
「ごめん、ごめんって翔くん」


散らかった部屋の片付けを二人でしながら御堂筋の小言は止まることがない。当時はなんでもできると思っていた姉も、蓋を開けてみれば掃除が苦手な普通の女の子だったのだ。掃除が得意な御堂筋はよく彼女の手伝いとして散らかりきった部屋の掃除に駆り出されたものだ。

今回も例によって例に漏れず。しかし向こう何年もあることではないと思うと寂しいかもしれないという血迷った感情が頭を過ってしまう。

帆は春から神奈川の学校で寮生活をするのだ。将来を見据えて関東圏の学校に通いたいという意見ではあったが、親戚の子供二人を養っている久屋家のことを考えてのことであると御堂筋は容易に想像できた。彼女が行く高校は奨学金制度が充実していたし、寮生活ともなれば安心しておじさんおばさんも任せられるだろうという算段だ。

こういうところだけ姉は自分と似て計画的なのだと御堂筋は嘆息する。姉は年々夭逝した母親に似てきているのに、中身はまったく同じだとは間違っても言えない。御堂筋と帆は驚くほど対照的にできることとできないことが分かれている。御堂筋は自転車と勉強以外のことはイマイチだが姉はほとんどのことを器用に熟すくせに自転車は未だに乗れない。自転車があったところで跨った瞬間に落車してしまうのだ。危なっかしくて乗せられたものではない。

そんな姉が、京都を離れ県外へ行く。それもよりにもよって、


「なんで、ハコガクなん……」


一年後、インハイで蹴落とすであろう当面の目標。王者箱根学園。そこに入学する姉。レース中の自分は既に見られているとはいえ、何とも言えない一抹の不安は拭えない。自転車オンチの彼女だからこそ自転車競技部との接点は限りなくゼロだと、分かってはいるが内心では複雑なのだ。


「翔くん? なんか言った?」
「……さっさと手ェ動かせや」


と、そんな風に考えていることは彼女は気付かない。鈍感でボケボケしている。似なくていいところは母親に似てしまったどうしようもない姉だ。御堂筋は己の不安などおくびにも出さず、ごちゃごちゃの教科書類を近くのダンボールに突っ込んだ。

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