傷つかない生涯



御堂筋帆は、生まれてこの方弟以外の人間に嫌われるという経験をしてこなかった。

それは彼女の人となりか、それとも奇運の成せる技か。彼女の某かについて妬み嫉みを受けることはあれど、実害となって彼女自身に降りかかることはなかったし、それによって傷つけられることなんて一度もなかった。暴言も怒声も侮蔑も。弟以外の人間が彼女に浴びせかけたことなんて一度もない。その弟でさえ本気で浴びせたものではないのだから、彼女が本当に傷つくはずがなかった。そこまで傷つかずにいれば傲りや自愛で我が強くなるだろうに、生まれる前から持っていたあの頃の記憶と亡くなった母への傾倒が彼女の人格を振れさせない。振れることを許さない。いよいよもって彼女は無傷で綺麗なまま、まるで聖女のように生きていく。

純粋な悪意を向けられることなく、触れることなく、落ちることなく、これまでもこれからも帆は生きていく。


「おはよう御堂筋さん」


それが帆は気持ち悪かった。


「おはよう」


朝、教室までの道も教室に入ってからでも毎日繰り返される挨拶。

それは友人だったりクラスメイトであったりが大半なはずなのに、彼女に至ってはそうでない者が半分はいる。普通なら首を傾げるようなこの毎朝を、自身が生徒会に属しているからだろうとあたりを付けて彼女は気にしない。知り合いでないなら無視してもいいだろうに、彼女は苦もなく笑顔でそれらに答えていく。それが当たり前で、毎日の朝の風景だったために、彼女は疑問に思っても大したことはないとスルーしてきた。

生まれた時からか。三年前からか。そのどちらかは定かでないが、彼女の感覚は麻痺して確実に普通から離れていく。


「おはよー帆ちゃん」
「おはよう葦木場くん」


教室に入り、自分の席に着いたところでいつものように見上げるほどの巨体が近づいてきて席の脇にしゃがみこむ。そのおかげで合わせやすくなった顔がいつもよりしょぼくれて見えた。


「また課題で分かんないところでもあったの?」
「はわわわ」


図星だった。

「帆ちゃんエスパーだったんだ……」というコメントしづらい呟きを落としつつ、小脇に抱えていたノートを開いて長い指で問題を示す。案の定、今日の一時間目の古典の和訳だった。


「葦木場くんは本当に文系が苦手だね」
「むしろなんで帆ちゃんはこんなん読めるの? やっぱエスパー?」
「暗記の成せる技ですとも」
「うへえ、暗記キライ」


脱力して投げ出した葦木場の腕が余裕で帆の机を横断する。身長がある分その腕も異様に長い。一気に机を占拠された方といえばニコニコ笑うだけで、閉じられた課題ノートを邪魔にならないように避ける。

課題といえば、東堂に去り際に言われたあのこともある意味帆にとっては課題なのかもしれない。見聞きしたことがないファンを見つけることなんて本当にできるのだろうか。


「そういえば葦木場くん。冗談だと思ってちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「私のファンってどこにいるか知ってる?」


少しだけ、笑われるのを覚悟して尋ねる。尋ねる相手を間違えたかとも思ったけれど、今思い立ったことだから仕方ない。そんな軽い気持ちで聞いた帆だったが、葦木場が当たり前のように返してきた答えにすぐに目を丸くした。


「このクラスは知らないけど、チャリ部にはけっこういるよ」
「え」


それが今朝のことだった。

人気のない校舎裏の一角。帆は放課後、いつもの空き教室に行く前に飼育小屋に足を向けた。無事に他のうさぎと同じ小屋に入れてもらえたウサ吉に寮母から分けてもらった野菜の切れ端をあげるためだ。新開はインターハイのメンバーを辞退したものの、未だ自転車競技部の一員であることは変わらず、当然部活が毎日ある。そのためウサ吉に構いきりになるわけにはどうしてもいかなかった。そこで新開と福富と話し合った結果、新開が外周に行く日だけは帆がウサ吉の世話をすることになったのだ。


「ウサ吉くん、餌ですよー」


頬を膨らませながら葉を食む小動物は見ているだけで癒しになる。ふさふさの耳を撫でている間、大人しく手のひらに収まっている様子もまた心をくすぐるものだ。緩む表情のまま、下から見上げてくる丸い目を帆は見つめる。彼も昨日はこんな目線だったのかもしれない。ふと思った。

上から見下ろしてきた三白眼。小動物とは冗談でも言えない獣の雰囲気を纏った先輩。彼が呟いた言葉はまるで今さっき聞いたことのように鮮明に耳で木霊す。


『偽善者が』


漫画で読んでいた時の勝手な印象にはなるが、荒北靖友という男の人となりはなんとなく把握していた。装うことを嫌う、愚かなほどに真っ直ぐでいることを望む男だ。隠すことや曲げることが嫌いな、そんな人間だ。帆の中での荒北靖友像はとてつもなく素晴らしいものだった。それだけ漫画で読んだ彼のシーンは彼女に強烈な印象を与えたのだ。

だったら、そんな存在に罵倒された事実は帆にとってショックなことではないのか。普通ならそう思うだろう。だが結論から言うとそんなことは微塵もなかった。

むしろ彼女は嬉しかった。生まれてきてから何の因果か良いようにしか言われなかった。悪いことは何一つ言われた記憶がない、それが少し気持ち悪かったというのもある。本当は自分は好かれているわけではなく、影では不満や愚痴が隠れているのではないか。いや、それだけならまだいい。もっと嫌なのは誰にもなんとも思われていない可能性だ。いたらいたでそれでいいけれどいなくても何も問題がない、どうでもいい人間扱いを受けているのではないか。そんな憶測が飛び交うほどに、彼女は悪意から遠退いた場所に長居しすぎた。

そんな彼女にも、彼は振れることなく言いたいことを言い放った。彼が彼女の本質をちゃんと見極めようとして発した言葉。御堂筋帆は生まれて初めて罵倒らしい罵倒を受けたのだ。

やっぱり荒北靖友はすごい。

憧れのヒーローを目の前にした子供のように、少女は満面の笑みを浮かべた。昨日浮かべたものとまったく同じ表情を浮かべてウサ吉に次の餌を与え始める。罵倒されて笑うなんて被虐趣味に目覚めたと勘違いされそうなことをしているのも本人は気付いていない。ただ残された気がかりを考えるだけだ。

東堂からの課題はまだまだクリアできそうにないけれど、しばらく会わないことを念頭に入れれば特別頭を悩ませることではないだろう、と。楽観的に思っていた。


「やあ! やはりここにいたのだな御堂筋さん!」
「オイ東堂ォ! この手離しやがれコラ!」
「うるさいぞ荒北! 黙って着いて来んか!」
「ダレが会いたくないヤツのとこに着いてくかよバァカ!」


まさか課題を出した次の日に東堂自ら彼女を訪ねてくるとは予想だにせずに。さらについさっき思い出し笑いをしていた相手も引き連れてくるなんて予想の範疇外だった。


「き、昨日ぶりですね、東堂先輩」
「うむ、昨日の件の調子はどうだね」
「あまり進展はありませんね。友達が自転車競技部にはたくさんいると教えてくれたくらいで」
「おお! ちょうどいい! 今日は御堂筋さんに紹介したいヤツがいてな! せっかくだから連れてきたのだ!」


自信満々に、さっきから東堂の腕を振りほどこうと必死な荒北を無理やり帆の目の前に突き出して彼は言葉を続ける。


「実はだな、この目つきの悪い男は御堂筋さんのファンなのだ!」
「あああ!?」


「(絶対ウソだ)」荒北の顔芸を見ずともすぐに分かった帆だった。
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