見えない糸を拾う



総北高校は坂道の多い山の上に立っている。駅から歩くにはしばらくかかるこの立地の性質上、通う生徒たちはバスを利用する者と自転車を利用する者に分かれる。今年から総北に進学する御堂筋帆の場合は前者だ、と言いたいところだがそうは問屋が卸さない理由があった。

彼女は今年から千葉県に住むことが決まったピカピカの高校生だ。わざわざ京都の親戚の家から一時的に本籍をこちらに移し、住んでいるのは一人暮らし用のワンルームアパート。県立故にほぼかからない学費は有難いこととして、問題なのは生活費だ。久屋家からの資金援助は申し分なく受けている。けれどそれにおんぶで抱っこでいられる神経は彼女にはなかった。なんせ弟のやっている競技はお金がかかる。消耗品や遠征費などで万単位の金額が一気に吹っ飛ぶのだ。それなのに自分のわがままで生活費まで捻出させてしまって、正直京都に足を向けて寝られないほどに頭が上がらなかった。

そういった遠慮やらなんやらの理由から、彼女は毎朝徒歩登校をしている。幸いなことに彼女のアパートは麓の駅の近くであり、歩こうと思えばできない距離ではなかった。毎朝駅から人が出てくる前に家を出て、何台もの自転車やバスに追い抜かされながら、最終的に始業時間の十分前に着くのだ。

けれどその日は、その十分前になったというのに彼女の姿は緩い正門坂の道を小走りで走っていた。完璧な遅刻だ。もっと言うと寝坊だった。

指定の制服を規定道理に着こなして、細っそりとした足が前に踏み出されるたびに膝上丈のスカートが忙しなく揺れる。人の視線を縫いとめる力を持った魅惑の光景だが、生憎とそれに目を奪われたのは同じく遅刻を覚悟してペダルを踏む一人の男子生徒だけだった。


「っ、御堂筋、さん! おはよう!」
「あれ、手嶋、くん?」


小走りから早歩きに変わったスピードに併走するように手嶋のキャノンデールが速度を落とす。走っていたせいで呼吸が荒く僅かに赤味が差した帆と、自転車で激漕ぎしていたという理由だけではない赤い顔の手嶋。同じクラスのムードメーカーと高嶺の花。釣り合うようで釣り合わない二人が登校中に会うことは初めてで、さらに二人きりで会うことも初めてのことだった。


「手嶋くんも、寝坊、した?」
「あはは、"も"ってことは御堂筋さんも?」
「うん、恥ずかしいことにね」


眉を下げて力なく笑う顔は汗の滲んで上気した頬も相まって少し色っぽい。同い年にしては落ち着いていて他の女子とは一線を画している彼女のそんな顔に熱はさらに上がるばかりだ。

手嶋にとって彼女は特別だった。簡単に手を伸ばして触れてはいけないような、けれど目を逸らすなんてもったいないこともできないような。そんな複数の欲求と自制とが折り重なって彼を内側から雁字搦めにする。クラスで眺めるだけで積極的に絡みに行くことをしなかったのもそのせいだった。けれど今日、このチャンスを目の前にぶら下げられて飛びついてしまったのだから、今までの苦悩がどれだけちゃちで浅ましいものだったのか彼は深く実感した。結局のところ、気になる女の子がそこにいれば見つめたくなるし手を伸ばしたくなるものだ。それは思春期の男子高校生としては至極当たり前のことだった。


「み、御堂筋さん、あのさ」
「手嶋くんの自転車、ピカピカしてるね」
「え? あ、あー、一応中学からの愛車だからさ。大事にしてやんないといけねーじゃん?」
「そっか、そうだよね、大事にしなくちゃ、ね」


その時帆が思い出したのは京都にいる弟のことだった。小学校の時に買ってもらったフレームを背が伸びた今でも乗り続けている彼。母が褒めていたロードバイクを後生大事に使っている大切な家族のことを思い出して、彼女は頬を緩めずにはいられなかったのだ。


「そういうの、素敵なことだと思うよ」


もちろん、手嶋はそんな彼女の内面なんて知らない。気になる女の子が自分の目の前で自分のこと褒めている。それがどれだけ嬉しくどれだけ焦がれるものか。この時手嶋の帆への思いが絶対のものになってしまったのは仕方ないことかもしれない。

結局始業から十分遅れて同時に教室に入った二人はその仲を疑われるのだが、必死に言い返す手嶋に対して慌てず騒がず否定する帆に地味に手嶋は落ち込んだのだった。



***



「話がある」


昼休み、移動教室からの帰り道に渡り廊下を通っていた時に中庭から近づいてきた人物に帆は腕を引かれた。

驚いて崩しかけたバランスを立て直して振り返ると、かなり上の方に外ハネの黒い頭が見えた。まわりで一緒にいた友人たちは黄色い悲鳴を上げてから近寄りがたそうに距離を置いてその二人を見ている。引き止めた方も引き止められた方も並べるだけでそれは絵になる二人だったからだ。

俄かに騒がしくなった周囲にその人物は苛立ったように舌打ちして彼女の腕を握ったまま人気のないところまで引っ張っていく。その場にいたクラスメイトたちはそれを残念がりながらも、後で話が聞けるだろうと諦めて教室に流れていった。ただ一人、硬い表情を浮かべる手嶋以外は。


「去年の夏ぶりだね、今泉くん。その様子なら元気で頑張ってるみたいね」
「あんた、御堂筋の何なんだ」


久しぶりの挨拶もスルーして今泉は本題を切り出す。去年の大会で接触してきた彼女という存在を偶然この高校で見つけ勢いで引っ張ってきてしまった。彼の頭にはそのことしかない。


「何って言われても……」
「あの時あんたの話口は御堂筋のことを知っている風だった。あいつの知り合いか何かでオレの弱味につけこむために近づいてきたって言われても納得できるタイミングだ。そこんとこどうなんだよ」
「弱味につけこむって、すごく悪そうな言い回しね」
「答えろよ」


ドン、と。壁際に追いやられた帆の逃げ道を絶つように腕で囲い込む。俗に言う壁ドンだ。ほぼ脅しに近い形だが壁ドンと言ったら壁ドンだ。


「それを聞いて今泉くんはどうするつもり」
「どうするって」
「確かに私は翔くんの味方だけれど、だからって彼の有利になるように働こうだなんて思ったこともないわ」


けれどそれで怯む帆ではない。もともと至近距離にあった二人の顔を、さらに帆が覗き込む形で距離を詰める。鼻と鼻の先がくっつきそうな距離に驚いて身を離したのは今泉の方だった。


「ロードレースは道の上で勝敗が決まるスポーツでしょう? こんなところで小細工をして簡単に勝てるような単純なスポーツじゃないことくらい、今泉くんが一番よく知ってるんじゃない?」


身を離しても、すぐそこにある真っ直ぐな黒い眼からは逃げられるはずもなく。すでに思い知っていたはずのことさえ諭され、今泉は圧倒されていた。ロードは確かに、彼女一人がどうこうしたところで何とかなるような甘いスポーツではない。そんなこと知っていた、なのに質問した。

もともと今泉が知りたかったことは、彼女に聞きたかったことはそんなことではなかったのだ。


「御堂筋は、どんなヤツなんだ」


御堂筋翔という男の人となり。御堂筋に勝つということだけを念頭にペダルを回してきた彼にとって、それは少しだけ気になることだったのかもしれない。だから彼を知っているらしい帆に、話を聞きたかったのだ。


「優しい子」
「はっ?」


けれどこれは、今泉にとってやってはならない大失敗だったのだと後に思い知ることになる。


「優しくってかっこよくって寡黙で努力家で家族思いで、とにかく翔くんはとってもいい子なの!」


その後、予鈴が鳴った瞬間に教室に息をつかせて入ってきた今泉は疲弊し尽くした顔で机に倒れこんだ。彼の身に何が起こったのか、それを知るのは先ほどまで一緒だった彼女のみの秘密である。



***



「ねーねー帆ちゃん! さっきのイケメンくんとなんの話したの?」
「一年の今泉くんだよ! 入学早々噂になってたお金持ちのイケメン!」
「告白? 告白よね? その嬉しそうな顔は上手くいったんでしょ!」
「違うよ、告白じゃないから」
「うっそだー! じゃあなんでそんなニコニコしてるの?」
「ふふ、ナイショ」
「えええ! 教えてよ帆ちゃん!」
「だーめ!」


久しぶりの弟自慢を思う存分できて幸せな帆であった。


(死人に梔子/もしも主人公が総北高校に通っていたら)(今泉くんに怯えられつつ手嶋くんと少女漫画)

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