耳元の幸福



その最期の瞬間を彼女ははっきりと覚えていた。

無機質なプラスチックの感触。目も開けられないほどに叩きつけてくる風。コンクリートの上を滑るタイヤと靴底がすり減っていく音だけが加速する景色の中で浮いていた。すぐ目と鼻の先に行き交う車の群れ。瞬きいくつで宙に投げ出された体と視界いっぱいの区切られた空。それが彼女が御堂筋帆になる前の記憶であり鎖であった。


彼女が神奈川の高校、箱根学園に進学を決めたのはいわば勢いだった。

自分があの御堂筋の姉になったのだと気付いた幼少期。病弱な母が入院し、父親がいない御堂筋と帆が久屋家の元に預けられてから御堂筋が愛車を見つけるまでの間、彼女は言い知れない違和感を感じていた。

御堂筋に久屋。どちらも珍しい名字である。翔と書いてあきら。これも珍しい名前だ。珍しい名字と珍しい名前。珍しい名前の親戚。二つおさげな従姉妹のユキちゃん。こんなにも簡単に組み合わさってあのキャラクターとまったく同じになることがあるだろうか。そこからは転げ落ちるようにすべてを理解していた。自分があの漫画の世界でこんなイレギュラーになってしまったことをまざまざと。理解した上でほんの少しだけ恐怖が湧いて出でたのだ。

私のせいで御堂筋が変わってしまったらどうしよう、と。

幼少期、それこそ生まれた時から知っている一つ下の弟。レース以外では寡黙で世話焼きで優しい弟。漫画ではレースをしている彼しか知らないわけではあるが、変化は知らないうちに忍び寄っているものである。それは気がかりという名で彼女の頭に居座り続けた。

彼の姉として、生きていくことを決心してからは見て見ぬ振りをしてきたそれ。けれど最近、それがむくむくと存在を主張し始め、無視することが彼女には出来なくなっていたのだ。

帆は自転車に乗れない。彼女は自転車事故で死んだからだ。

いつも通りの時間、帰り道、走り慣れた下り坂で緩やかに速度を落としてくれるはずのブレーキが故障した。助けを求める悲鳴も止めようと地面を擦るローファーも彼女を助けてはくれなかった。帆はそのまま車に突っ込んで意識を飛ばした。そして今ここにいる。

けれど彼女には自転車にトラウマがあるなんて自覚は驚くほどに薄い。ただ自転車に跨った瞬間に転んでしまうのだ。恐怖も悲痛もなく、どちらかと言えば自転車が彼女を拒否しているような、そんな事象。たったそれだけだと言ってしまえるが、御堂筋にはそうではなかったようだった。

帆が自転車に関わる時、彼はどこかいつもと違かった。何が、と聞かれると返答には困るが、彼女がレースを見に行くたびに何とも言えない視線を向けてくる。あの御堂筋翔が、姉に遠慮した態度をとってくるのだ。

この事態は彼女に強い衝撃を与えた。目の前の彼は確かに弟の翔だけれど、自分が読んでいた御堂筋翔ではなくなってしまうのではないかと。幼少期、忘れていたはずの不安が自己主張を強くする。このままそばにいたい。けれどそれは本当に最善なのか。悩んで悩んで、離れなければいけないのかもしれないと進路面談で関東圏の高校に行きたいと相談すると、候補に挙げられたのが神奈川の箱根学園だった。帆は思わず飛びついてしまった。


そして厄介な事態に陥っている。


「なあ、教えてや帆ちゃん」
「あう」


頭の上。乗っけられた顎にコツコツ旋毛をノックされて喉の奥から変な声が漏れた。テレビ画面ではちょうど真紅の2号機パイロットが主人公を罵っているシーン。『お前馬鹿ァ?!』どこかで聞いたことのあるセリフ、というか某汎用人型決戦兵器2号機パイロットのツンデレ美少女と似たような性格のキャラ。小学校のクラスにいたワガママなクラスメイトと似ていて帆は最初彼女が出るたびに穏やかではなかった。今ではすっかり好きなキャラの一人だが。


「聞いとらんわけないよなあ、なあ、なあ」
「ひい」


カチン、カチン。彼自慢の真っ白い歯がいい音を出してる。どうやら現実逃避は無意味らしい。本当ならばトイレなり課題なり無理やり用事を作って逃げたいところではあるが、今の状態が彼女にそれを許さない。何せ今まさに、帆は御堂筋に後ろから抱き込まれる形でアニメを見させられているのだから。背中は彼の胸板にピッタリとくっつき、日本人離れした長い両腕が絡め取るように腰に回って簡単には外れそうにない。むしろちょっと苦しい。どうしたものかと恐る恐る顔を上げればつむじに置いてあった顎が上手く額にスライドし、気付いた時にはデコピンの要領で強烈な一撃が帆の額に容赦無く落とされていた。痛恨の一撃である。


「いたっ、ごめん、痛いよ翔くん」
「なんで説明してくれへんの、ボクゥに隠し事なんて百万年早いんよ」
「話します話しますから」
「ほな、早よしい……なんで高校、神奈川にしたん」
「弟離れを、しようと」


もう一つ、大きな攻撃が額に直撃。『ああああああああああ』「のあ」テレビの中の主人公と悲鳴が被った。ある意味言い得て妙な言葉ではあったが彼はふざけていると受け取ってしまったようだ。


「うあ、ぜったい赤くなってるよ、痛いよこれ」
「なんやそれ、そんなん理由になると思てるん」
「落ち着いて、話せば分かる。そろそろお姉ちゃんの頭おかしくなっちゃうから」
「とっくにアホになっとるわ」
「えええ」


翔くんがアホって、アホって言った。いつもだけど。

姉としては散々理不尽な扱いを受け、少しだけ凹んでいると急に背後が静かになった。いや、御堂筋は基本的にいつも物静かな子だけれど。この流れで静かになるのはおかしいと帆が振り向こうとした、瞬間耳元から声変わりを終えたばかりの弱々しい声が彼女の気持ちを揺さぶった。


「帆ちゃんもボクを置いてくんやね」

「うわあああああああごめんお姉ちゃんが悪かったごめんお姉ちゃんどこにも行かないよごめんなさいごめんなさい翔くんごめんなさうわあああああ!!!」


と謝ったところで結局は手続きが全て済んでしまっているのだから謝り損でしかなく、泣く泣く神奈川に向かう姉に対して弟の態度はしばらく刺々しいものだった。泣いた。
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