外せない仮面



帆は自分の前世の顔を覚えていない。家族や学校生活、漫画の内容はそれなりに頭に残っているというのに、名前と顔の二つだけがぽっかりと穴があいたように思い出せない。それがどういう意味なのかは分からないが、ふとした瞬間にそれは頭の片隅に不透明な澱を落とす。

これは本当に自分の顔なのかと、亡くなった母そっくりの顔を眺めて思う。日本人にしては淡い色の髪。二重の下で輝く黒い瞳。淡く色付いた薄めの唇。健康さを損なわない程度に白い肌。決して嫌いではない。だって大好きな母の顔だ。大事に大事にとっておいている母の笑顔だ。けれど、じゃあ、彼女自身の顔はどこに行ったのだろう。どこに、帆の要素があるというのだろう。シミ一つない頬を揉みながら、眠気の抜けきらない朝を過ごした。ほんの少しだけ、彼女は自分の顔にコンプレックス持っていたのかもしれない。それが母を否定しているような気がして罪悪感が襲って来る。一度死んだ人間のくせに、もらった体に文句を言っているような気がしていたたまれなかったのだ。


「好きです、御堂筋さん!」


下駄箱に入っていた手紙を頼りに訪れた校舎裏。昼休みの短い時間に呼び出され、行ってみればお約束と言わんばかりの告白。名も知らない男子の顔を見上げ、目が合って恥じらうように反らされた。本当に好きなんだ。帆は他人事のような遠い思考の中で感心していた。罰ゲームや一時の迷いには見えない、真剣な告白。この手の類は生まれ変わってから何度か経験したことがあった。その度にやはり自分の母は内面だけでなく外見も美しい人だったんだなと誇らしかった。


「どうしてなのか聞いてもいいかな?」
「え!? えっと、生徒会の仕事を頑張ってしているところとか、誰にでも優しいところとか、その、笑顔が可愛いなって思ってて」
「私の顔、可愛いと思う?」
「も、もちろん!!」
「そっか……」


今では自分の顔が少しだけ、重りに思えてならない。母が死んで虚ろな目をするようになった御堂筋の本当の家族になりたくて、彼女は精一杯の良い姉になろうと努力した。小学校の手抜きの成績ではなく、勉強にスポーツに交友関係にと弟が恥ずかしく思わないような理想の姉を目指して努力してきたつもりだった。けれど人格はどうしても何が正しいのかは分かり兼ねる。だから、彼女は無意識のうちに母と自分を重ねてしまった。母のような女性を目指して頑張ってしまった。その結果が自己の喪失。アイデンティティの迷子。考えて動いているのは確かに自分なのに、気づけば言動の根幹が”お母さんならばこうするだろう”というものに置き換わってしまっているように感じた。こんないい人間ではない。自分は弟のためだけにしか頑張れない自分本位な人間なのだ。そう言ってしまいたい衝動も母の笑顔の仮面で呑み込まれていった。


「ごめんなさい、今は誰かとお付き合いする気はないんだ」


顔で選ばれたわけでないことは分かっている。だが、まったく顔が関係ないということはないだろう。捻くれた考え方が染み付いてしまった自分を嘲笑う。こんな歪な自分を好きになってくれた人に、いろいろな意味を込めて謝れば、やっぱりという顔で逆に謝られた。


「そうだよな。御堂筋さんはファンクラブがあるくらい人気なのに、オレみたいなのと付き合うわけないよな」
「ふぁ?」


ファンクラブ?


「時間取らせてごめん。告白聞いてくれてありがとう」
「え、あの、」


尋ねる前に早足で行ってしまった男子の背を呆然と見つめる。


「ファンクラブってなに……」


いや、意味くらいなら知っているが。ただの高校生に、しかも自分にファンなどというものがつく? ありえない。頭を抱えたい気分で校舎の壁に手をつくと、向こうの角から見えた足が枝を踏む様が目に入った。ポキ。


「あ」
「え?」


人がいた。恐らく、さっきの告白も聞かれていた。途端に恥ずかしいような気まずいような気分が喉を遡ってくる。それは相手も同じなのか、観念したように出てきたその男子は困り顔で頬をかいてこちらを見ていた。


「すまない……聞くつもりはなかったのだが、こちらもここに呼び出されていたのでな」


相手が来る前に帆たちが来てしまったということなのだろう。それならば相手に非はないし、彼女はもともと責めるつもりもない。それよりも驚いたことと言えば彼の容姿である。今時カチューシャで前髪をとめる人がいるものか。少し不思議なスタイルだと思いつつ、小綺麗な顔立ちに白いカチューシャはよく似合っていた。

ん? カチューシャ?


「い、いえ、私は大丈夫なんですけど……あの、このことは他言無用にしてもらってもいいですか?」
「もちろんだ。この東堂尽八が約束しよう」


ああ、やっぱり東堂だった。

想像よりも整った顔をしている。新開の彫りの深い顔とは違い、あるべき位置にパーツが並んでいるという純日本的な綺麗な顔。同じイケメンでも雰囲気がこうも違うものなのかと関心してしまった。これでファンクラブがつくのも納得だ、という考えに行き着いた辺りで帆はハッとした。


「あの、東堂先輩ってファンクラブがありますよね? そういうの詳しいですか?」
「ああとも! やはりこの美形にはカリスマ性に惹かれてそれ相応の人が集まって来るものだ! 可愛らしい女子たちの声援を受けるたびに、この顔の美しさが末恐ろしくなるよ……」
「へ、へえ」


ちょっと引いたのは胸の内に仕舞っておくとして。


「じゃあ、一年の御堂筋帆にファンがいるのって本当ですか?」
「そうだな、確か入学してすぐにファンクラブができたとは聞いている。なんでも最近はチャリ部の新開とデキてるという噂があったが、どうやらガセだったらしいな。てか、これキミのことだろう、御堂筋さん」
「……知ってたんですか?」
「さっきの告白を聞いていたからな。やはりキミが御堂筋さんか! 噂には聞いていたが、確かに百合のような美しい女子だな。態度も謙虚でいじらしい。まさに大和撫子といったところか! ファンがいるのも頷けるものだ!」
「……あ、りがとうございます?」
「自信なさげだな。この山神が褒めているのだ! 素直に喜んでもいいのだぞ?」


なはははと高笑いが始まった。帆は常時テンションの高い目の前の男に僅かながらの戸惑いを覚え始めた。ナルシストとハイテンションのコンビネーションは実際に目にすると末恐ろしいものがある。主に精神衛生的な観点で。


「そうは言っても、先輩は嬉しいことかもしれませんけど、私には複雑なんですよ……」
「というと?」
「ファンクラブの存在を今知りました」
「……キミは意外と鈍感だったりするのかね」
「否定できないところが辛いですね」


カチューシャから飛び出している前髪を弄りながら思案顔をする東堂。そこで帆は自分が東堂にいつの間にか相談紛いの会話をしていることに気付いた。こんなことしないでさっさと戻ればいいのに、東堂の雰囲気が話してもいいかも知れないという気にさせてくる。不思議な魅力を持った人だなあ。素直にそう思った。


「だが、応援してくれる者がいるということはいいことだと思うぞ!」
「そこなんですよね……」
「む?」
「先輩は自転車競技部の立派な選手ですから、応援がいて心強いのはわかります。けれど私は生徒会の役員ということくらいで表立って応援されるようなことはしていないんです。なのにファンだなんて、どう接していいか……」
「キミはファンに助けられたことはないのか?」
「ファンの存在を知らなかったので、もしかしたら知らず知らずのうちにあったかもしれませんね」
「そうだったな……」


ふむとまた思案顔になった東堂と、同じく真剣な顔の帆。しばらくお互いに考え唸る空間が広がっていたが、それは予鈴が鳴り響くとともに終わりを見せる。結局東堂を呼び出したという女子は来なかった。実際は美人二人がひたすら唸り続ける異様な空間に割って入る勇気もなく、何も言わずに蜻蛉返りしてしまったという経緯がある。無論二人は知らない。

昇降口までの短い道すがら、ハイテンションな為りを潜めて考えこんでいた東堂だったが、靴を履き変えるあたりでハッとしたように顔を上げてビシッと帆に指を差した。彼のファンの間で流行っている『キャー東堂様ー! 指差すやつやってぇー!』のアレである。


「とにかく御堂筋さん! キミはまず自分のファンを知ることから始めるといい! 話はそれからだ!」
「えっ」
「ではまた会おう! さらばだ!」


颯爽と、無駄にキラキラしい笑顔を残して二年の教室に向かう東堂。その急なセリフを少しして噛み砕いた帆はため息を吐いた。感嘆と疲労と呆然をないまぜにしたそれは、東堂に対する印象のすべてを詰め込んだものだった。東堂とまた会わないといけないのかという脱力とまた会えるのかという期待が半々の割合で残っている。緩急のあるテンションと言葉に翻弄されたものの、見ず知らずの後輩の言葉に真摯に耳を傾けてくれた優しさが胸に沁みいった。ああいう人間にこそ応援したいと思えるファンができるものだろう。


「私のファンってどこにいるのかな」

見たこともない自分のファンを見つけるという無理難題をどう扱うか。真剣に頭を悩ませていた帆だったが、彼女がお昼を食べ忘れた事実に気付くのはそのすぐ後のことだった。

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