家族の定義



御堂筋翔にとっての姉という存在は三年前のあの日から変わることなく心の内に生きている。けれどそれは結果的にという言葉が前提にある不安定なものだった。

夏の大会。実質中学最後のレースで難なく優勝をもぎ取ってしまった御堂筋は、存外不機嫌な様子で壇上から降りた。力と力のぶつかり合い。それがロードレースというもので、ギリギリの戦いの果ての勝利が彼にとって価値あるものだった。足掻いて漕いで回して、汗水垂らして手を伸ばした末に勝ち取った勝利ほど空っぽになった器に潤いを齎してくれる。幸せの色が視界の隅に短い寿命の間煌くのだ。

その点、今日ほど黄色が薄いレースも珍しいだろう。最後の最後でちょっとした文言ごときに惑わされ失速していった少年を思い出そうとして、どんな顔だったか忘れてしまったことに気付いた。今までで一二を争う愉快な顔だったはずなのに、レースが終われば御堂筋の海馬は短期記憶としてですらその顔を残す価値もないと捨ててしまったのか。もう一度見れば思い出すかもな、とありえないことを気まぐれに考えながら、その大きな黒目は淡色の髪を探して忙しなく泳いでいた。

彼女が、姉の帆が御堂筋のレースを見に来るのは珍しいことではない。まだ彼女が京都の中学校に通っていた時から休日にあるレースは率先して足を運んでいた。御堂筋が知らせたことなど一度もないというのに。どこから嗅ぎつけてきたのかゴール前の一角で当たり前のように手を振って弟の姿を見に来るのだ。その様子を思い出すと、何故だか心の内が心地良いざわめきに包まれる。

御堂筋は姉の帆を好ましく思っている。彼女が笑って自分の名前を呼んで、その白い手と手を触れ合わせるだけで身の内に黄色い感情がふわりと香ってくる。それが幸福と呼べるものだとすれば、御堂筋は世界一幸せな人間として己の生を価値あるものだと誇れただろう。


「帆ちゃん……」


だが、所詮はそれは限られた時間の中だけである。

茂みの向こうのベンチ。そこに姉の姿を認めた御堂筋は、長い足を大股で動かして近づいて行く。あと少し、何歩も行かないあたりまで迫ったところで、彼女が一人ではないことに気が付いた。


「ねえ、どうして?」


途端に、体が何も考えず茂みの影にしゃがみ込む。既に日本人の平均身長を上回る御堂筋の上背だったが、腰まであった茂みのおかげで難なく隠れることに成功した。いや、そんなことより。


「(どうしてはこっちのセリフや)」


何故、帆がそいつといるのか。

チラと見えた横顔。それだけで忘れていた情けない顔が瞬時に脳裏に蘇った。弱い男だった。自分が勝つと盲信していた、有り触れた甘ったれだ。そんな男が、どうして姉と一緒にいるのか。そう疑問に思いつつ、心のどこかではその会話を冷ややかな気持ちで静聴していた。

話の内容は御堂筋が今泉に行った所業。そして今泉のこれから。そのすべてを聞き届けて、彼はなんとも言えない気持ちで息をついた。それは安堵の息だったのかもしれない。姉がまだ弟を見放していないという安心。もしくは、

彼自身が姉を見放さなくて済んだという杞憂。

御堂筋翔にとって、亡くなった母は聖域である。それと同時に彼がロードバイクに乗る根源。なくてはならない、忘れてはならない存在である。まさしく過去の土台と言っても良い。

そして彼の唯一の姉は象徴。彼がロードバイクに乗れるのは姉のおかげであり、何より弟の勝利を心の底から祈り、見守る存在は彼に忘れかけた安らぎを教えてくれる。まさしく勝利の女神。ゴールの向こう側で微笑む未来の希望そのものなのだ。

口には出さずとも御堂筋にとっての姉は大切で、それでいて一言では表現できない複雑怪奇な人間だった。勝利のため、重りになるものはすべて捨てて来た少年にとって、姉は後生大事に守ってきた光であり、そして捨て時を見失ったお荷物でもある。

そう、御堂筋はいつでも姉を試してきた。

例えばもし、帆がたったの一言でも今泉に対して謝罪に準ずる言葉をかけたなら、御堂筋は姉を捨てただろう。唯一無二の姉から、ただの血の繋がった他人へと無慈悲に降格させたに違いない。自身の理念を否定する人間など、所詮は些末で矮小な甘ちゃんでしかない。だから、要らない。

姉が与えてくれる、このえも言われぬ感覚が永遠に続くことなどありえない。永遠など字面でしか存在できないことだと、御堂筋は母が死んだあの時から己の胸に深く刻みこんでいる。だから、あの笑顔もいつかは自分からなくなってしまうのだろう。遠い未来、見えない明日、御堂筋の元から離れて行ってしまうかもしれない。それはある意味重りとも言える感情だった。そんな不安を掻き消すためならば、何度だって姉を引っ掛ける。姉を試す。信じるために試す。試して信じてまた試す。そうやって生きてきた。そしてこれからも、そうやって生きていくのだろう。


そしてもしも本当に姉を失ったなら、御堂筋はまたあの時間に戻される。母が死に、姉が憎悪の対象であったあの空っぽの期間。まるで口を開けて待ち構える化物に自ら進んで歩いて行くあの感覚。粘液でベタついた食道を踏みつけて酸の海で溢れた胃袋を泳ぐ、その苦痛が。それがまた始まる。けれどその代わり、彼は今まで背負ってきた重りの一つを捨られる。今度こそなんのしがらみもなく己の身一つでゴールまで走っていけるのだ。


「来年翔くんをよろしくね」


そんな言葉と共にふわふわとした気持ちが急激に覚醒する。御堂筋は丸めていた体を起こし、元来た道を歩き始める。背後のベンチで驚いて固まっている男など知らない。ただ、弱いという印象と今泉という名前だけが頭の中にインプットされてしまったのは仕方ないことだろう。


「ほな、あだ名は弱泉くんやね」


ププ、と口だけで笑って見たものの、表情は変化することなく遥か彼方を見定めている。

また捨てられなかった。

そんな思いを胸に、どこかに行ってしまった姉の影を追い求めて。

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