キミと私の愛と正義



茹だるような夏の日だった。

関東某所で開催されたとあるレース。ロードバイクに夢を賭ける中学生たちが集う大舞台。自然に満ち溢れた山の中腹にゴールを構えたそのレースは、京都代表の御堂筋翔という少年が一番最初にラインを超えることで幕を下ろした。二位の選手と5分07秒差をつけてのゴール。歓声を受けステージに上がった長身痩躯の少年は、優勝という栄光を手にしたとは思えないほど極めて静かに虚空を見つめていた。空っぽ。まさにそんな目が澄み切った青空を無感動に映している。

その顔を見て、帆はやっぱりと思った。御堂筋がレースを終えて浮かべる表情といえば大抵それだ。勝利の余韻も快感も、何も考えることなく無意識に黄色を追い求める。探して、見つけて、すぐに消える。たった数瞬にも満たない幸せの世界。それが何を捨ててでも手に入れたい彼の願いなのだから。

何を捨ててでも。プライドも。感傷も。道徳も。常識も。何もかもがレースの前では不要な飾りになり果てる。不要なものは捨てなければならない。それが彼なりの軽量化である。捨てて捨てて捨てて、そうして軽くなった体が手に入れるものが勝利という至高の玉ならば、それ以外の結果など些末なことでしかないのだ。


「隣り、いい?」


ステージから遠く離れたベンチ。傍の自販機で購入したスポーツドリンクを手に、帆はその少年に声をかけた。頭からタオルをかぶって俯いている様子は、顔が隠れていても憔悴しきっていることが見て取れる。


「472番、今泉くんだよね?」
「……」
「さっきの表彰式、体調不良のために欠席ってアナウンスがあったから、テントに引っ込んじゃって会えないのかと思った」
「……何の用だよ、アンタ」
「そうだね、まずはレースお疲れさま」


アクエリあげる。勝手に座ったベンチの、今泉と帆の間に汗をかいたペットボトルが置かれる。それに今泉は一瞥もくれず、ただ鋭い眼光のまま地面を睨みつけていた。


「本当はもっと落ち着いたあたりで話したかったんだけど、今日を逃したら機会ないからさ。ちょっとだけ付き合ってくれないかな?」
「オレは話す気なんて、」
「キミはなんで、御堂筋くんに5分07秒差をつけられたの?」
「ッ!」

タオルが地面に落ちる。現れた外ハネの多い黒い頭が下から帆の顔を覗き込んでいた。否、覗き込んでいるというよりは呆然と見つめているといった表現が正しいかもしれない。


「彼って無駄な労力が嫌いだから、いつもぎりぎり数秒差でゴールするの。だから今日は珍しいなって、おかしいなって思って」


ねえ、どうして?

真っさらな、当たり前のことを当たり前だと知らない幼子のような笑みで、帆は問いかける。今泉にとっては残酷でしかない疑問でもってその傷痕に容赦なく爪を立てたのだ。


「みどう、すじ」


焦点の定まらない瞳が揺れ、僅かに表面が涙で潤む。そこから徐々に光を取り込んでいった黒目が、明確な一つの感情に力強く固定された。


「みどうすじ……御堂筋が……」
「御堂筋くんが、どうかしたの?」


それは、怒りだった。


「アイツが……御堂筋が、オレを騙したんだ!!」


今泉は喉の奥に溜まった血反吐をすべて吐き出すようにレース中に起こったことを語った。レース中に母親が事故にあったと言われた。一言で簡単に纏められるその行動は、その文面だけでは受け取り切れない感情を含んでいた。

可哀想なほど顔を歪めて涙を流すその横顔を眺めながら、彼女は別のことを考える。御堂筋は確かに今泉を騙した。傷つけた。そのための嘘が、母の死。誰かを傷つけるために吐かれた言葉は自分にも帰ってくるもの。だからこの言葉は御堂筋がかつて傷ついたことでもあるのだ。


「(やっぱり、お母さんのことがまだ……)」


そのことが知りたかった。漫画で読んで知っているからではなく、彼女自身の目で耳で、御堂筋に傷つけられた子を、言葉を、知りたかった。それで確信した。帆は本当の意味で御堂筋の支えになれていない。彼の心に残った母の死という傷も、痛みもそのままに、彼女はまだ何も成せてはいなかった。


「 全部ウソだったッ! 御堂筋は、オレが失速するのを見て、笑いながらちぎって行ったんだ!!!」


怒りや悔しさは言葉に出してしまえばもう止まらない。思いの丈を最後の一音まで喋り続ける。それほどまでに彼の中学最後となるこの大舞台で負った傷は深かったのだから。そんな中自分の考えに浸っていた帆は、突然申し訳ない気持ちになった。この確信のためだけに、彼女は傷心の今泉をさらに傷つけている。最初に落ち着いて話したかったと言っていたものの、彼が打倒御堂筋を掲げてしまってからでは見ず知らずの女にこんな話はしてくれなかっただろう。

自分の弟のためならば他者を傷つけても構わない。そんな理念を初めて自分の中に見つけてしまったのだ。


「今泉くんはさ、これからどうしたい? その、御堂筋くんを負かしたい? それとも復讐したい?」
「オレが、御堂筋を……?」


だからこれは、今泉に対する彼女なりの贖罪だった。勝手な独りよがりかもしれない。けれど、早く今日の傷を癒してくれるよう、ロードを通してまた御堂筋と対話してくれる貴重な存在の一人として、帆は彼の言葉を待った。


「オレは……正々堂々、倒したい。御堂筋を負かして、アイツのやり方が間違っていることを証明したい」
「それが今泉くんの正義なんだね」
「正義? そんな、仰々しい言い方、」
「仰々しくないよ、だって今泉くんは認めさせたいんでしょ? 自分の考えを。自分が正しいって信じてるんでしょ? だったらそれは今泉くんの正義だよ」
「正義、なのか? これが、オレの……」


深く考え込んでしまった今泉をそのままに、帆は御堂筋の言葉を思い出す。


「ロードレースは勝負の世界。優勝以外はすべて負けで、勝った者だけが今までの努力を認められる。肯定される。それって正義と似てるよね。誰かの正義を否定して、より優れた人が新しい正義を作るの。今泉くんがやりたいことってそういうことだよ」


彼からの受け売りを自分なりに解釈して、そう語りかけた。勝負の世界とはどうしても勝ちか負けに分かれてしまう。むしろそうなるために勝負の世界はあるのだ。それは自身の確立であり他の否定。傷つかないでいられることは勝負の世界ではありえない。誰かに勝つということは誰かを傷つけることで、誰かに負けるということは傷つけられることでもあるのだ。だから、その覚悟を帆は今泉に問うた。


「今泉くんがその正義を塗り替えた時、今のキミと同じ思いを御堂筋くんにさせてしまうけれど。それでもキミは、キミの正義を貫くの?」


キミの本性はどんな形をしているの?


「オレは、御堂筋のやり方が正しいなんてどうしても思えない。だから、アイツを傷つけてでも分からせてやる……アイツが小細工もできないくらいに追い詰めて力だけの勝負をさせるッ! そして今度は絶対にアイツを負かすッ! それが、オレの正義だ!!」


やっぱり主人公の周りには芯の通った子が集まってくるものなのか。帆は微笑みの下で眩しいものを見るように目を細めた。そして心から安堵した。このまま漫画の通りに未来が進むとは思っていないけれど、それでも、御堂筋と勝負する相手が今泉のような真っ直ぐな人間で良かったと、心から思った。


「良かった、キミが真っ直ぐな子で」


そう言ってベンチから腰を上げる。存外喋りすぎてしまったようで、表彰式はとっくの昔に終わってしまっていた。このままでは御堂筋と会う時間もなくなってしまうかもしれない。


「話を聞いてくれてありがとう。来年翔くんをよろしくね」
「え?」


最後に、今泉の面食らったような顔を目にして背を向ける。愛しい弟の元へと歩いていく足は軽やかで、夏の蒸し暑い風が彼女のワンピースを緩く巻き上げた。

次に帆がレースを目にするのはちょうど一年後。夏の熱い戦い。箱根の街を舞台とするそこで御堂筋翔と今泉俊輔が再会することが必然なように、彼女が姿を現すこともまた必然の未来だった。

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