間違える



泉田塔一郎は生まれながらに真面目な性分で、もっと言えば善良な人間だった。

人に何かしてもらったらお礼を言う。悪いことをしてしまったら謝罪する。挨拶はきちんとする。良いことは褒め悪いことは叱る。他人の嫌がることは率先して引き受ける。年長者には敬意を表せ。より良い人間になるための努力を怠るな。

聞いていて頭がおかしくなりそうなほどの潔癖な、それでいて純粋さを体現したような、そんな理想を心に持った少年だった。だがしかし、持っているからといってその通りになれないのが理想というものである。泉田は確かに真面目ではあったが、飽くまでそれは普通の域を脱していない。彼は融通の効く真面目だった。ネガティブな表現に変換すると、彼は気が弱かった。


泉田は最近思い悩んでいた。それは、自身が尊敬して止まない先輩である新開のことだった。

新開は泉田にとってまさに理想の人物であった。終始笑みを絶やさず、先輩後輩関係なく人当たりの良い態度で接する。何より、ロードに乗っている新開が好きだった。普段の余裕を全てかなぐり捨ててゴールのみを渇望する姿は鋭く真っ直ぐに伸びた槍のようで。箱根学園に入学してから見た彼のレースは全て泉田には眩しく、美しく見えた。いつか並んでインハイの舞台で走れたら。自身には過ぎた願いだと叱咤すれど願わずにはいられない。泉田の中での憧れは止まることを知らず新開へと向けられ続けた。そんな新開が、インハイの出場を辞退した。誰もが喉から手が出るほど欲しいヒトケタゼッケンを、いらないと言ったのだ。

部内は騒然となったが、一番動揺したのは恐らく泉田だったに違いない。何故。直接の面識があったならすぐにでも駆けて行って理由を尋ね説得していただろう。けれど新開と泉田との接点など所詮は同じ部活の先輩後輩に過ぎない。何より隣りに立っている福富が一切動揺した様子を見せなかったことから、既に以前から話し合っていたことなのだと気付いてしまった。新開と福富。公私ともに仲の良いことで有名な、この二人が納得してしまったことを泉田がとやかく言えるわけがないのだ。

それでも泉田は悩んだ。どうすれば新開は考え直してくれるだろうと。あの美しい姿をインハイという舞台で披露してくれるのかと。助けを仰ごうにも今回ばかりは黒田には頼れない。いつもなら相談に乗ってくれる幼馴染みも、現在は荒北という先輩との確執でピリピリとしている。自分一人で、この問題を解決しなければならないのだ。


「なあ泉田、お前あの噂聞いたか」
「噂? なんの?」
「新開さんのだよ」


洗濯物を取り出していた手が止まる。いつもの無駄話をいつもの如く聞き流していたというのに、泉田の耳はその名前だけは聞き逃さなかった。


「ほら、御堂筋さんっているじゃん、1年の。新開さんと付き合ってるんだって」


時間は人を変えるもの。環境もまた然り。人それぞれの在り方を良い方にも悪い方にも変化させうる、厄介で避けようのないものだ。今回の泉田にとってのそれは、高校生という年齢と箱根学園自転車競技部の一員という環境だった。真面目で気が弱い善良な少年に、先輩のためという大義名分が触媒となって作用し始める。

そして泉田は暴走してしまったのだ。



「あの、御堂筋さんいますか」


校舎の中でも一番離れた教室。二階の、自転車競技部部室に面した人気のない場所。そこの扉に泉田は手をかけた。普段は生徒会の活動で忙しいという彼女が、放課後に入ってすぐのこの時間にいるのかは賭けに近い。だが泉田が時間を裂ける場所など部活の前のこの短い間しかないのだ。

幸か不幸か、帆はその教室にいた。いつものように三本ローラーのけたたましい音を聞くために、窓際の席に教科書とノートを広げて座っている。窓から吹き込んできた風に髪が靡いて泉田の目は一枚の絵画のような神聖さを感じ取った。


「あれ、泉田くん、だよね?」
「僕の名前、知ってるんだ」
「委員会で何度か見てるからね」


どうかしたの、と椅子をずらして体をこちら側に向ける帆。確かに、噂で聞くような綺麗な子だと思った。外面も、内面も。新開と並べばそれこそ絵になる二人だろう。泉田の中では二人が付き合っているという噂がもはや真実になってしまっていた。実際は根も葉もない話なのだが。


「あの、話があるんだ。ちょっと時間いいかな」
「うん?」
「新開さんの、ことなんだけど」


と、そこで彼女が不思議な顔で首を傾げた。確かに、今の段階では泉田と新開の繋がりが分からないだろう。そう思って泉田が同じ部活であることを捕捉したが、それでも彼女は曖昧な表情で首を傾げたままだった。

何故だろう。その煮え切らない態度に泉田の腹の底がジリジリと焼ける。何が不思議なのだ。何が気に食わないのだ。新開という完璧な人の隣りに立っているというのに、何がそんな顔をさせるというのだ。


「私、新開さんのことで答えられそうなことは何もないと思うよ?」
「嘘だ!」


そんなわけない。そんな思いが怒鳴り声となって泉田の口から出て行く。普段の、今までの彼ならそこまで感情的な態度を取らなかっただろう。けれど何故か、本当に何故か、泉田の頭の中は言い表せない複雑なものが渦巻いて彼の理性を鈍らせている。


「だって君は新開さんの大事な人なんだろ!? なら、新開さんがどうしてあんなことを言い出したのか分かってるはずだ!」


そう、彼はそのことを聞くために帆に今日会いに来たのだ。新開の彼女である帆なら、新開のことについて聞けるのではないかと。あわよくば自分の代わりに考え直すように説得してもらえないだろうかと。そう思って、あまり面識がないにも関わらずこうして彼女の元へと足を運んだのだ。

誤算だったのが、泉田が彼女と相対した瞬間から何故か冷静でいられなかったこと。尊敬する新開と、目の前の帆。この二人のことで徐々に平静だった頭が未知の焦燥で侵されていったことだった。


「だ、大事な人?」
「そう、君は新開さんとお付き合いしてるんだろう!?」
「してない、けど」


そして誤算以前の問題、大前提として二人は付き合っていない。


「そう、してないんだ! だから君は少なからず新開さんの――…………してない?」
「う、うん」
「新開さんと? お付き合してないの?」
「今初めて聞いた」


数瞬の後。その場にはただただ無言で頭を抱える泉田と、イマイチ状況が掴めていない帆が謎の沈黙に晒されていたとか。

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