口の中の平穏



「ウサ吉くーん、ほらほらエサだよー」
「いっぱい食えー、強い雄になるんだぞー」
「…………」


校舎裏の人気の少ない飼育小屋に、少女とイケメンと鉄仮面が三人。一人を除いて一生懸命一匹の子ウサギに向かって話しかけている。なんとも不思議な空間で、クラスメイトどころか同じ学年ですらない女子生徒が自転車競技部の有名人二人と打ち解けている光景はどうにも違和感がある。

それは当事者のはずである福富も同じ心持ちで、終始葉っぱをヒラヒラさせて子ウサギの気を引く新開と柔らかい手つきで毛並みを梳く帆を腕を組んで眺めていた。


「しばらく別の小屋ですけど、予防接種が済んだら一緒の小屋に入れても大丈夫だそうですよ」


先日、新開と共に怪我に対する謝罪をしに行った際、福富が聞いた言葉がそれだった。聞くところによると、彼女は生徒会に入っており、生徒会長に口添えしてもらう形で飼育委員会のほうに話を通してもらえたのだとか。自分たちだけでは手間と時間をかけたであろう説得がたった二日で終わってしまった。その驚きもあったが、彼女が本当に怪我について新開を責める気持ちを持っていないことがさらに福富を驚かせた。今でも彼女の手首には包帯が巻いてあり、青い鬱血の痕が目に痛い。多くの者がそれに気付き理由を尋ねただろうに、新開の悪い噂はここ数日の間全く聞くことがなく箱根学園は平和なままであった。


あの日、新開の様子がおかしいことに福富はすぐに気付いた。いつもなら帰ってすぐ整備を始めるはずなのに、その日に限って部室からすぐに出てどこかに行ってしまったのだと、心配そうに先輩に尋ねられ言い知れない不安を抱いた。試しに部室を覗いてみれば案の定、肝心のサーヴェロは輪行袋の中で沈黙したまま手をつけられた形跡すら見当たらない。その傍らに落ちていた賞状は強く握られたのかいくつか折り目が付いてしまっている。温厚な新開が箱学の名を背負って獲った賞をこれほど雑に扱うなんて。先程まで抱いていた不安は確信に変わり、消えてしまった新開を探すために福富は部室から飛び出した。そして、あの現場に居合わせたのだ。

あの時は二人とも冷静ではなかった。事故を引き起こしてしまった新開も、仲間の言動に感情のまま激昂した福富も、座って話し合いができるほど理性的な振る舞いは取れない状態だったのだ。だから帆の突飛な行動や提案はまさしく鎮静剤としてその場に大きく作用した。もしあの場に彼女がいなければ福富は新開を怒鳴りつけることなどなかっただろうが、ここまで早く新開の憂いを知り、聞き入れる態勢にはならなかったはずだ。それほど彼の弱り果てた姿は福富には衝撃を与えたのだ。


「福富さんは触らないんですか? ウサ吉くん」
「フワフワしてて気持ちいいぞ、寿一」
「む」


感慨深く柔らかな雰囲気の二人に視線を送っていた福富は、突然の呼びかけに応える形で膝を折る。葉っぱを小さな口に詰めていく子ウサギの瞳としばらく睨めっこをした末にゆっくりと手を伸ばした。確かに柔らかい。少々ぎこちない手つき故に相手のほうが身を固くしたのだが、福富は動物と接する機会があまりなかったため、そのままごしごしと小さな体の上を撫で続けた。

まさに平和な時間だった。ウサギとはいえ、勝利のためにかけがえのない命を奪ってしまったのだと自責の念に駆られていた新開。彼が普段通り陰りのない笑みを浮かべられるようになった。それをどうして喜べないでいれるだろうか。

確かに、今年のインハイでは二人は共に走ることはできなくなった。しかし、まだ来年がある。それまでには新開も、もちろん福富も今より実力をつけていることだろう。それからでもまだ遅くはない。あと一年、箱根の直線鬼の名を全国へ轟かせる機会が遅れるだけ。それだけのことだと、福富は思うことにした。実際には自転車競技部内での混乱はまだ納まったわけでは決してないのだが、彼にとって今はそれで良かったのだ。


「新開さんって、1年の御堂筋さんと付き合ってるらしいぜ」


それが許されたのは本人たちだけのことだったとは気付かずに、自転車以外では鈍い男、福富寿一は他称鉄仮面を僅かながらに綻ばせ、その時ばかりは子ウサギを愛でることに集中した。
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