泣けよヘイア



生き物は死んだら何処に行くのだろう。

幼い子供が初めて飼い犬の死に直面したような、そんな無知故のまっさらな疑問を、彼は重々しく己の内に落とした。温度も振動も、何もかも失ったはずのその毛玉は、失ったという事実にまだ気付いてはいないようにずっしりと重く体を預けている。いや、気付けるはずがないのだ。そうする前に彼女は避けようのない意志に巻き込まれて命を散らしたのだから。子を案じる暇も何もなく、ゴムとコンクリートの間に挟まれ潰れる責め苦を受けたのだから。


「ごめんな、ごめんな」


その謝罪は誰に向かって言っているのかは明確でも、誰のために言っているのかは曖昧で。ハンドルを握り締めていた手のひらで小さな命をすくい上げ、その母の命を踏み躙った足で彼はペダルを漕いだ。

罪悪感と喪失感は、その行為をまだ許しはしていないというのに。


「質問に答えろ新開!」


ジャージの伸びるほど掴まれた胸倉は、彼に息苦しさしか与えなかった。

生き物の臭いに満ちたそこで、見慣れた顔が見慣れない形相で詰め寄ってきているというのに、新開は気もそぞろに黄昏を見詰めていた。意識はあった。自分が何をしてしまったのかも、分かっていた。けれど複数のことが事実として突きつけられた思考は脳みそをかき混ぜる勢いで深く考えることを放棄させる。


「さっきの女子にしていた行為は間違いなく暴力沙汰だ。一歩間違えればお前の退部だけでは済まない。こんなことお前なら言わずとも分かっているはずだろう!」
「大丈夫だ……土下座かなんかしてオレ一人の退部で済ましてもらえるようにするから」
「どこが大丈夫なんだ! お前は、オレとインハイに出て天下を取るという約束を忘れたのか! 新開!」


忘れるわけない。けど、叶うこともなくなっちまったんだ。

そう答える気もなく、フェンスにもたれかかった体が言うことを聞くのかも曖昧だった。ただ思うのは、さっきの女子生徒に悪いことをしたなという気持ち。

新開はもちろん、最初から彼女を傷つける気などなかった。ただ、自分の手に残った子ウサギの居場所を作らなければならないと必死だったのだ。彼自身の手で、壊してしまった居場所を取り戻すために。気が高ぶって、返事を急いて、気が付けばその細い手首を捕まえてしまっていた。そして、福富に妨害された。それだけだった。

彼女は何処かに走って行ってしまったが、恐らくはすぐに戻ってくるだろう。自分を襲った人間を許しはしないだろうし、そんな危ない人間がいたら人を呼ぶ。呼ばなくとも手首の怪我の理由を聞かれればすぐに新開はそれなりの呵責を受けるだろう。そうすれば、退部は免れない。それもいいと思った。今の新開の心理状態ではどうあっても自転車に乗ろうなどとは思えない。それを人に伝える気概も、ない。だったらいっそ、辞めさせられた方が楽。


「ごめんなさい、お待たせしました!」


虚ろな瞳の隅で先ほど見た姿が駆けてくる。人を呼んできたにしてはずいぶんと弾んだ声だと、不思議に思った新開が視線を向けると、返ってきたそれは笑顔だった。


「会長から許可を貰えたので、明日、飼育委員会にお願いしに行きましょう。今日は流石に無理ですけど、明日は私も着いていくので」
「なんの、話だ……?」
「え、うさき、ウサギの話ですよ?」


その言葉に意味が分からないという顔をしたのは新開だけではなかった。


「ウサギ、だと?」
「はい。あ、今日は許可もらえなかったので、簡易ですけどゲージ借りれるみたいです。飼育倉庫の鍵も借りてきました」
「いや、そうじゃなくて」


話を聞く気がないのか聞こえてないのか。こちらを置き去りにして、近くの倉庫から小さな箱と網を持って戻ってくる。中には丁寧に干し草が敷いてあり、使い古された水皿もちゃんと入っていて生き物が飼えるようになっていた。


「応急処置で申し訳ないんですが」
「あ、いや、十分だ」


本当に申し訳ない風に上目で見られ、新開の混乱はさらに助長した。置いてけぼりを食らっている新開と福富をそのままに、彼女は近くにいた子ウサギを抱き上げ、干し草の上にそっと置く。完璧な手際だった。


「あ、後で寮母さんに野菜の余り貰えないか交渉しときますね。委員会には明日の放課後に行くつもりなんですけど、大丈夫ですか?」
「ああ、むしろ有り難いけど、」
「じゃあ、迎えに行きます。名前とクラス、教えてください」


驚くほどスムーズに話が進んで行き、気が付けば彼女は寮に向かって帰るところで。


「なあ! 御堂筋さん!」
「はい?」
「なんで、責めないんだ? オレはキミに怪我させたんだ! 退部になってもおかしくないこと、したんだ!」
「え?」


そう、そのはずなのに。彼女は、御堂筋帆と名乗った1年生は、困惑を全面に出して首を傾げてくる。それをしたいのはこちらのほうだというのに。しばらくの間、柔らかな黒が上を数巡行き来し、思案したことがその薄紅色の唇から零された。


「私、そんなにひどいことをされましたっけ? というか、新開先輩は、退部したいんですか? 退部って、するのとさせられるのじゃ意味が違ってくると思うので……私が訴えて、もし先輩が退部になるのなら、絶対に申告するつもりはありませんよ?」


一つ頭を下げて、今度こそ去って行った彼女。新開は呆然と、今言われた言葉を噛み砕いて、それで自分が最低なことをしようとしていたのだと知った。

彼は、彼女の気持ちを利用して部活から逃げようとしていたのだ。自転車から、ロードバイクに乗ることから逃げるために、人を傷付けて、傷付いたはずの人の気持ちすら利用して、現実から向き合う努力を放棄しようとしていたのだ。

最低だった。情けなかった。悔しかった。


「寿一、悪い、オレ、話すから、絶対に、いつか全部話すから、待っててくれ」
「分かった……明日、御堂筋に謝ろう。オレも一緒に謝る」


いつの間にか涙を流していた新開に顔を向けることなく、福富は彼女が去って行った方を眺めて腕を組んだ。分かりにくいが、新開の言葉を深く受け止めたようだった。


そして翌日、自転車競技部の福富と新開というビッグネーム二人を連れて歩く御堂筋帆がいつも以上に目立ったことは言うまでもない。

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