追記

・伊弉冉一二三「貴女の一番になりたい」/アングラ


「こういう場は初めてなのだが何を注文すればいい? 初手ドン・ペリニヨンは性急すぎるだろうか」
「落ち着いて。あとアルコールは、絶対、やめてください」
「心得ている。君たちに振る舞う分だ」

いやいや流石に神宮寺の人間だからって酒で豹変しませんって。……多分。
一二三からのお誘いで中王区の壁を跨いでやって来ましたシンジュク・ディビジョン。実はお初のホストクラブ。意外と私の周りにホスト好きがいなくてね。ここで寂雷先生が潰れて一二三と独歩が潰されたのかぁと思うとワクワクが止まらない。どこの席? VIP? ぶいあいぴーでシャンパンコール? 私、気になります。
結構ガチ目で止めてくる一二三にちょっともにゃもにゃする。私だっていっぱしの大人。飲み過ぎると記憶が飛ぶタチなのは重々承知の上で節度守ってるし、今年に入って二回しかやらかしてないのに。ま、そのうち一回は一二三の前でだったんですけどね! ……マジで大丈夫だよね、ね、ね?
自分の知られざる闇の部分にじわじわ指先が寒くなる。やっぱアルコール入れて体あっためていい? ダメ? そんなー。

「姫、アルコールが苦手でしたらノンアルコールカクテルもありますよ」
「別に苦手では、」
「うちはノンアルコールも充実してるんですよ、良かったらどうです?」
「そんなに信用ないのか、私は」

遮るようにメニューを見せてきた一二三。苦笑しつつ覗けば本当にたくさんあった。ここはバーか。

「では、シンデレラを」
「かしこまりました、姫」

……やっぱり聞き間違いじゃなかったんですね。

「ひめ……?」
「はい、それとも子猫ちゃんとお呼びした方がよろしかったでしょうか?」
「いや、姫というよりはお嬢と呼ばれる立場だったから、新鮮で」
「なるほど、気に入っていただけたなら光栄です、姫」
「姫、甘い物がお好きでしたらデザートでもどうでしょう」
「初めてなら試しにゲームでもしてみますか、姫」
「姫」

新鮮と言った瞬間からここぞとばかりに姫扱いしてくれるホストの皆さんすごい。接客業の鬼。ホストというよりは執事っぽいぞ。客のニーズに合わせてくれてる。ホストクラブすごい……。
客というより聖地巡礼しに来たオタクみたいなリアクションを取ってしまった。かなりやりづらかっただろうに。
ノンアルで乾杯して、ゲームして、お話して、念願のドンペリを頼んで、生シャンパンコールにマジテンション上げして。いやぁ充実した時間を過ごしましたわ。

「今日は楽しんでいただけましたか?」
「もちろん。最高だった」
「それは、良かった」

ずっと隣に付き添っていた一二三は、良かったと言うわりにちょっと歯切れが悪い。どうしたのって視線をやると、アルコールか、もしくは別の何かか。ほんのりと頬を染めて、視線を一瞬私から外す。
えっ、何その顔。ちょー可愛いんですけど。写真撮ってスマホのホーム画面にした……んんん! なんでもないです続けてくれたまえ。

「こんなことを言えば貴女を困らせてしまうと、分かっていても止められない、ワガママな僕を許してください」

シルバーリングがきらめく綺麗な右手が私の手を取って、左手がさらに上に覆い被さる。本当にお姫様の手を握るように大事に包み込んで、潤んだ黄色い瞳が黒猫の目みたいで思わず見入ってしまった。


「貴女の一番になりたい」


……うん?

「君はもうナンバーワンだろう?」
「この店の、ということではなく。“貴女の”と、ちゃんと言ったでしょう」
「いや、聞こえていたよ。聞こえていたとも、んん、」
「何がおかしいんですか。僕は──本気なのに」

ホストの一二三ではあるんだけど、ちょっとだけ素の一二三っぽさもあるなぁって。分かったのは短いながら一緒に生活した賜物なのか。拗ねたように尖らせて、でもすぐに慌てて元に戻した唇。ちょっと治まった笑いがぶり返した。

「男の僕は気軽に中王区には入れません。自分から貴女に会いに行けない。なら、せめて心だけでも僕に奪われていてくれないか、と。烏滸がましくも願ってやまないのです」
「そ、そう、ふふ、そうか」
「……笑ってしまうほど、僕が愚かに見えますか?」
「断じて違う。愚かだなんて少しも思わないよ。ただね、だって、君、」

当たり前のことすぎて言えてなかったんだなぁ私。まあ出会いが出会いだから言えなかったってのもあるけど。うん、そっか。じゃあちゃんと言わないと。
ほんのり眉を下げて寂しそうにしている一二三。安心させるように、いつも以上に柔らかさを意識した笑みを浮かべた。

「私の推しは最初からMC GIGOLOだから」

今さらだなぁ、と肩が揺れるくらい笑ってしまった。

「ずっと君が一番だよ」

ポカンと口を開けた一二三。それから、ホストの時には絶対見せない酸っぱい顔で、じわじわと赤色が広がっていく様をじっくりと観察してしまった。観察できるくらい推しに慣れてしまった自分が果報者なのか罰当たりなのか。調子に乗って推しを肴に酒を飲もうとノールックで取ったグラスを煽る。「あっ」途端にビリビリッと熱い何かが喉で弾けた。あっ。

「それは、僕の、シャンパン……」

めっちゃ飲んじゃっ、た…………。





「だから飲まないでって俺っち言ったのに〜〜!!」

そんな幻聴がどこかから聞こえた。
マジで何やったの、私……?




・白膠木簓「離してあげない」/プニカ


スマホを落としました。
……こんなことってある? 社会人としてボケボケすぎてむしろ悲しくなってきた。
慌てて警察に相談したものの見つからず結局スマホを買い換えるハメになった。最悪なことにバックアップがきちんと取れていなくて連絡帳は真っさら。自分の迂闊さに地の底まで落ち込む。なんで私、こんなにダメなんだろう……。
さらに一番の大問題は、簓さんと連絡が取れなくなったことだった。
簓さんはオオサカ、私はシンジュク。新幹線一本で片道三時間ほどの距離は遠い。頻繁には会えない分、こまめに連絡を取っていたのに、今はそれもできない。
前から予定を擦り合わせて今週の土曜に会いにいくつもりだったけど、待ち合わせとかどうしよう。うじうじと悩んでいる間にも時は過ぎ、ええいままよ! と朝イチの新幹線を取った。
のが、昨日のこと。

「来ちゃった(はぁと)」

玄関のドアノブに手をかけたまま、目の前の光景が信じられずに固まる私。服も化粧もバッチリ、一泊分のお泊まりセットを持って、いざオオサカ・ディビジョン! と玄関に立った瞬間。ピンポーン。早朝にあるまじきチャイムが鳴ったのだ。
オオサカにいるはずの簓さんが、いた。

「ええ!?」
「びっくりした? カエルがひっくり返るくらい驚いたか?」
「なん、で、シンジュク・ディビジョンに、えっ、お仕事は?」
「昨日仕事終わってから夜行バスで! 金曜日やからめっちゃ混んどってな。あ、コンドルで混んどる〜ってか!」
「は、え、どうして、」
「それ、俺に言わすん?」

ビクッ。急に静かになった声音に肩が揺れた。糸目で見えない瞳がいつもとは違う温度で私を眺めている、気がしたから。

「す、すいません、私」

とりあえず謝ってしまうのは悪い癖だと、前から分かっていたのに。

「それは何のすいません? 電話出ぇへんことの?」

治していなかった自分をここまで後悔する日が来ようとは。

「それは、ですね、あの、」
「もう俺のこと嫌いになった?」

えっ、と声を出す前にすごい力でドアを開けられて、簓さんが玄関の中に押し入ってくる。よく見るとジーパンやダウンは私服だけど中はいつもテレビで見るシャツとネクタイそのままで。着替えの途中のチグハグな格好でここまで来たことが分かった。
押し入ってきた勢いに押されて玄関に尻餅をついた私。その膝の上を跨ぐように膝をついた簓さん。手が、床についている私の手に重なって……あの、押し倒される直前というか、もう四捨五入して押し倒されているというか。至近距離にある顔は、口は、笑っていなかった。

「は、はなし、」

話をしましょう、と言おうとした。口が上手く回らなくて、テンパっている間に重なっている手が指の股をスルリと撫でて……。


「離してあげない」


って標準語で言えば分かるか? と。いつものおちゃらけた口調を低いトーンでしてくる。簓さん、こんな顔する人だったっけ。
芸人のサガか、自分も他人も笑わせようと楽しくお喋りする口が真一文字。驚くほどフラットな顔が影になって余計に尋常じゃない。

「離してたまるかい。ちゅーか、もう無理やねん」

そして何か勘違いされてる、気がする。

「ジブン、俺の中でどんだけおっきな割合占めとるか分かっとらんやろ。こっちは家賃払ってほしいくらいやわ」
「あの、簓さん、私、」
「なんなん、聞きたないねんけど」
「す、すま、」
「またすいませんかいな」
「ちがっ、ぅん!?」

え、え、ここで!?
ほぼ押し倒された体制が完全に押し倒されて、まさかの唇で唇を塞がれる事態発生。かさついてて冷たかったそこは、ずっとくっついているとだんだんぬるくなって、私の体温が移ったのかと思ったら余計に平静じゃいられなかった。
久しぶりのキスは嬉しいはずなのに、こんな一方的に舐めて吸われて揉まれることは初めてで。やっと慣れたはずの鼻呼吸もままならない。なんで、なんで話、聞いてくれないの。

「泣くほど嫌か」

やっと離れた時には、生理的なものとは違う涙が目からポロポロこぼれていた。大人なのに、いつまでも子供みたいな自分が悔しくて、恥ずかしくて。口も顔も怖いまま優しく触れてくる指に、抑えようと頑張っていた気持ちすらどうでも良くなってしまった。

「す、まほ」

もう、いいや。

「すいませんはもういい……すまほ?」
「スマホ……っスマホ、落としちゃったんですぅ!!!!」
「は……落とし、ハァッ!?」
「スマホ落として連絡つかないから今日会いに行こうとしてたんですぅっ!!!! うわぁーん!!!!」
「えっ、ちょ、ガチ泣きやん!?」

押し倒されたまま簓さんの首に抱きついてダウンの肩口に顔を埋める。我慢してた分どばどば流れる涙がテカテカの素材をよりテカテカにしていった。

「簓さん怖かったぁ〜〜!!!!」
「すまん、すまんて、堪忍! 俺と別れたくて自然消滅狙っとんのかと! 完全にこっちの早とちりや、すまん! ほら、ええ子やから、堪忍な!!」
「うぇーん簓さーん!!!!」

泣かした相手に縋りつくんかい、というツッコミは聞こえないフリをした。だって久しぶりの簓さんなのに、簓さんは怖いけど簓さんは好きだから。長く会えないし、連絡も取れなくて、

「わだしだて、寂しかったのにっ」
「おんおん簓さんも寂しかったで」
「ささらさんっ、すきなのに」

ビクッと震えた温かい体。はぁ、と大きなため息が聞こえて、大きな手が私の背中をポンポンと叩く。

「なんなんジブン……これ以上俺をダメにしてどうしたいんや……」
「簓さんがなんなんなんっ!」
「なんが一個多いわ」
「簓さんのばかぁ!」
「えらいすんまへん!」

という会話を玄関に寝っ転がって繰り返した私は、これが外の通路に丸聞こえだったことを後から知ったのであった。

「引っ越さなきゃ……」
「お? オオサカ来るか? 俺はいつでも大歓迎やで!」
「それもいいかも…………あっ」
「ほんなら早速、手続きしよか」

ニンマリ笑う簓さんはお笑い芸人じゃなくて詐欺師の方が合ってる気がしました。




・白膠木簓「俺、君が思ってるより重いんやで」「嫉妬ばっかりしてる」/プニカ


「俺、君が思ってるより重いんやで」

より柔らかく弧を描いた目元が真摯に私を見上げている。ほんのり掠れた声が妙に切なくって。とっさに耳を傾けてしまった私は少しだけ変な気持ちになってしまった。
本当に、この人は、

「えっと、想像通りの重さですよ? 私、全然、動けない、です、もんっ!」

人の腰に抱きついて何を言ってるんだろう。

「そうそう成人男性の平均、って体重の話ちゃうわ!」
「違うの!?」
「ボケちゃうんかい!」
「うぇ!?」

抱きつかれた状態で手首のスナップを効かせたツッコミが脇腹に入る。軽くとはいえメンタル的に変な声が出た。流石お笑い芸人。
今の状況を簡潔に言うと、ソファから立ち上がろうとする私と、それを阻止しようと腕の力を強める簓さん。どんな状況って、テレビのリモコン取ろうとしてるだけなんだけど。リモコンが立ち上がらないと手が届かない絶妙な位置にあって、いくら「ふん!」と気張ったところで無理なものは無理。あとちょっとで触れない指を見て「なはは〜!!」といちいち笑ってくる簓さん。誰か助けて。

「始まっちゃう! あと二分で始まっちゃうので!」

漫才コンビを集めたお笑い特番。半年ぶりのお楽しみだ。この日のために頑張ってきたと言っても過言じゃない。なのに腰の手がさらにヒシッと纏わりついてくるのはどういうこと。

「俺以外の男を見る気なんやろ! 俺というものがありながら! 浮気者!」

結婚したのか? 俺以外のヤツと〜みたいなこと言わないでほしい。

「テレビの向こうの人と恋愛できませんよ!?」
「できたらするつもりなんか!? 浮気者ぉー!!」
「簓さん!?」

とうとう横倒しに近い形でソファに沈む私。気にせずグリグリ顔を腰に押し付けてくる簓さん。いつも以上に人懐っこい大型犬のような遠慮のなさで、これはちょっとおかしいぞと思い始める。甘えたな面も目立つ簓さんだけど、なんやかんやで年上の男性らしく寛容に私のお願いも聞いてくれるから。何度彼の「かまへんよ!」にホッとしたことか。それがテレビを見るだけでコレなんて。

「……ホンマに、重いんや」
「え?」

くぐもった声がすぐそこから聞こえてきた。


「嫉妬ばっかりしてる」


ポツリ。飴玉を転がすような唐突さで、そんなことを言う。見下ろしても緑の旋毛があるばかりで、顔を腰に埋めたまま簓さんは額をグッと押し付けてくる。

「俺の彼女や。俺が一番笑かしたいやんか」

さっきの賑やかさはどうしたのか、ジェットコースターのように目まぐるしく変わるテンションに、私は飲まれてしまった。

「そういえば私、最近簓さんで笑えなくなっちゃったんですよ……あっ」

思わず本音が飛び出てしまうくらいに。

「ガーン! なんでこのタイミングでそういうこと言うん!? 俺のこと嫌いなんか!?」

ガバッと勢いよく顔を上げる簓さん。押し付けすぎて押し上げられた前髪から普段見えないおでこが露わになっていて可愛い、なんて悠長に考えている場合ではない。違う違うと手を振っても「なんでやなんでや!」攻撃は止まらず、渋々口を開く。

「嫌いというか……うぅ……」
「嫌いというか、なに!? そこで黙られると困るんやけど!!」
「て、テレビで見る、簓さんも……一味違って、格好良いなぁと」

見るのに集中して話が耳に入ってこないんです……。ごにょごにょと俯く私。静まり返る部屋。やっぱりちゃんとネタを見てほしいよね。昔はファンとして普通に笑えていたのに、こんな人と私付き合ってるのかぁ、としみじみしてしまって、うん、恥ずかしいの極み。言わなきゃ良かった。
しばらくうじうじと反省会をしていると、視界の隅で緑色が全くの不動であることに気付く。恐る恐るチラッと目を向けると、全く笑っていない真顔の簓さんが、前髪をくしゃくしゃにしたまま固まっていた。

「さ、簓、さん?」
「……俺は、どうしたらええんや」
「簓さん?」
「絶対笑かしたい自分と、笑ったっちゅーことは俺のカッコよさに慣れたっちゅーことでそれはそれで嫌な自分と、どう折り合いつければええんや」
「おーい、簓さーん」
「そんでもって他のヤツのしょーもないコントで簡単に笑うやろ自分! 腹立たしいにもほどがっ、!?」

ちゅ、と。おでこに軽く唇をくっつけると、簓さんがまた一時停止。普段は絶対しないことだけど、あまりにおでこが可愛かったので、勇気を振り絞ってやってしまった。テンションが振り切れた簓さんは不意打ちで何かしないと一生止まらないことをお付き合いしている間に私は学んだのである。

「ごめんなさい。えっと、おでこ可愛いです、ね?」

いやそういうことを正直に言う気はなかったんですが。
というか今さらだけど空気読めないにもほどがあるでしょ。やってしまってからじわじわと恥ずかしくなってまた俯く。けれどほっぺのあたりに相手の視線がグサグサ刺さっていることは痛いくらい感じていた。

「……ほんま、ほんまな、自分」
「ごめんなさい、空気読めなくてすいません」
「はぁーーーー」
「た、溜め息、長いです、ね……」
「一生部屋から出さへん」
「ひぇ」

普段笑ってる人の真顔は怖い。ヒシッと未だにしつこく腰を抱く腕に本気度を見出した私だった。

ちなみに見れなかったお笑い番組は実は録画予約済みだったことは絶対に内緒にしておこうと思いました。私の彼氏は重い。ちゃんと学んだことは今後に生かそう。結局寝るまで離れなかった簓さんに寄りかかりながら、ひっそり心に誓った日だった。




・天国獄「俺の隣で笑ってて」/プニカ


前世があるってことは私って一度死んだんだよね。
そんなことを唐突に思い至った。いや、思い出したという方が正しいかもしれない。馴染めない馴染めないと唸っていたのが嘘みたいに今の生活に慣れつつある自分を感じる。
この世界は女尊男卑。法整備が女性向けのものが多くて生きやすい。でも、男の人が多い職業も女の人が多い職業もだいたい同じで、男が力仕事をするとか、女が家庭を守るとか、そういうパワーバランスも確かにあって。前世と同じ地続きの世界なのかと勘違いしてしまう。
だから、たまに思い出してゾッとしてしまうんだ。

「待たせたみてぇだな」

ナゴヤ・ディビジョンの待ち合わせ場所のカフェ。ガラス張りの席で外を見ていたら節くれ立った指が伝票を攫っていった。

「いえ、時間ピッタリですよ。私がちょっとだけ早く来すぎただけで」
「だが、カップ一杯飲み干す程度の時間はあったんだろ」

片眉を上げて空のコーヒーカップを見下ろす獄さん。ヒラリと伝票を揺らしてレジまで歩いて行ってしまった。
デートのお金は男性が払うもの、なんて女尊男卑の世界観には似合わない。まるで前世のことのようで、余計に外の景色が浮いて見えた。

「珍しいな、野良バトルか」
「え、ええ、シンジュクだとあまり見ないので」
「ああ、シンジュクは優勝チーム様のテリトリーだからな。表立って騒ぐ馬鹿はいねぇだろ」
「です、ね」

店を出て二人並んで歩き出すと、ちょうど向こうの通りが良く見えた。
マイクを起動するとどこからともなく現れるスピーカー。声を吹き込むことで相手が呻き苦しむ。非現実的な世界が今の私の世界で、こんなところに馴染めてしまった私が恐ろしい。ワケもなくぶるりと震えた体。それを慰めるように獄さんの腕が肩を抱く。

「おい。今日変だぞお前」

気怠い声の中に混じっている心配は、すぐに聞き取れた。

「あ、はは、すいません……」
「さっさと俺ン家に行くか」
「だ、大丈夫です、ちょっと服装間違えただけなので! それに獄さんの腕の中でポカポカ〜っと、」
「おい」

肩を抱く手が、指が、少しだけ強く食い込んだ。

「無理すんな」

たった一言だった。
パッと見上げた先に整えられたヒゲと、ちょっと張り出した頬骨と、泣きボクロと、二重がくっきりとした目と、いつも通り決まっているリーゼントがあって。そういえば今日、ちゃんと獄さんの顔を見ていなかったことに気付く。歩く足は止まらない。ずっと前を向いている瞳が、ほんの一瞬、チラと私を見下ろして、また前を向いた。

「なんで自分がここにいるのか、分からなくなる時があるんです」

こっちを向いていないことを嬉しいと思うなんて。不思議と口は簡単に動いた。

「じゃ、俺の隣にいるためだな。今日からそれを理由にすればいい」
「え……」

意味不明な、私でさえ何と言っていいか分からない私の不安について、獄さんはものの一秒もかからずに答えを出した。


「お前が、これからも俺の隣で笑ってて、能天気なヤツだと俺が笑って、それでいいじゃねぇか」


理由なんざでっち上げちまえばいつか本当になる。そういうモンだ。
頭が良い人にしては適当すぎるソレが、何故だか簡単に私の中に落ちて溶けた。そっか、獄さんを理由にしていいんだ、と。霧のように湿っぽくて避けられようがない感情が途端に薄れていく。
結局お出かけデートはお家デートに変更になったらしい。肩を抱かれたまま連れてこられた駐車場で、獄さんのバイクに乗って獄さんのお家を目指す。加速するごとに形もなく流れていく景色。前世と今の違いなんて分からなくなるほど、早く、速く。
そういえば、私がこの世界に馴染んだ気がしたのはこの人とお付き合いしてからだったな、と。白黒のジャケットにしがみつきながらちょっとだけ笑った。




・入間銃兎「俺だって嫉妬くらいする」/プニカ


サプライズ、というものが苦手だ。
私のためを思ってしてくれてる相手の気持ちを考えると、求められているリアクションをしようと身構えて、ギクシャクしてしまうから。結果的に嘘っぽくなってしまって、相手の好意を台無しにしてしまうかもしれなくて、気を張りすぎて、終わるとドッと疲れてしまう。
なのに、なんで私は……。
大きな買い物をしてしまった。それも、プレゼントで。……この前銃兎さんと行った個展の、一番小さい絵のレプリカを、ボーナスで買ってしまったのだ。銃兎さん喜ぶかなぁと注文して、宅配便の発送メールが来た途端にはたと。これはサプライズプレゼントになるのでは、そこそこ値が張る絵なんか急に渡されて困るのは銃兎さんではないかと。思い至って冷や汗が噴き出した。
絵が届くのは私の家。浮かれていた私は届く日にお家デートのお誘いをして、届いたその場で渡そうと考えていた。それが今日。リビングのソファで銃兎さんと二人きり。スマホに発送完了のメールが来るのを待っている状態だ。
だ、大丈夫、サプライズということでまだ銃兎さんに何も伝えていないんだから。絵が届いてもプレゼントなんて言わず個人的な買い物だと寝室に突っ込めばいいんだ。うん、そうそう。落ち着いて、大丈夫、大丈夫……。

「何かあるんですか?」

ビクッ。

「え、な、なんで?」
「最近スマホばかり気にしていますから。立て込んでいる仕事でもあるのかと」

指摘する理由もパーフェクト。現に私は今朝からずっとスマホを触りっぱなしだったから。

「いえいえそんな、……大それた仕事は、私のような新人には任されませんよ」

親戚付き合いでは遺憾なく発揮できる処世術は、こういう時には全然役に立たない。相手が私なんかより一枚も二枚も上手な人だと知っているから。

「それか、他の男とか?」
「え」

次の週末はどこに出かけましょうか、くらいの軽い口調でとんでもないことを言われた気がする。
予想外すぎて固まる私。対して銃兎さんはふむと口を尖らせて、煙草を吸うのと同じ動作で唇に指を添える。眼鏡越しの相手の目を見ると、瞳が見えないくらいニィと細まって、何を考えているのか分からない。それでもきっと、見た目通りのポジティブなものではないはずだと察してしまった。

「あまり人付き合いに関して口を挟みたくはないのですが」

そう前置きして、銃兎さんは言った。

「あなたのコートから、伊弉冉一二三の名刺が出てきたんです。つまり、ホストクラブの名刺です」

ピラっと人差し指と中指で挟まれた名刺。思わず顔を覆った。なんで今、どうして今。まるで妻にキャバクラ通いを指摘された旦那の気分だ。いや逆。なぜ男側で考えた。そもそも先輩のお付き合いで行っただけだし……って、これこそ言い訳の定番だ。どうしたら、何と言えば。
真っ青な顔を覆っていた手を、銃兎さんの手がゆっくり丁寧に外していって、ものすごく近い距離に眼鏡があって。眼鏡に映った自分の顔に思わず身を引いた。

「何故逃げるんですか? ホストクラブではこれくらい近くでホストの方とお話するんでしょう?」
「いえ、こんな近くな、」
「こんな距離に、他の男といたんですよ?」

ゾゾゾッ、と。背中に鳥肌が立つほど、何とも言えない艶っぽい声が目の前で吐き出された。吐息混じりの優しい低音が、無機質な緑の瞳と合間ってものすごい圧を感じる。怒っている。あんなに優しい銃兎さんが、私のことを冷たく見下ろしている。真っ青を通り越して真っ白になった。
何か、なにかを言わないと。銃兎さんに、きらわれ……。

「はぁ」
「ひっ」
「ああ、いえ、あなたに対してでは、あー……」

クソッ、と。小さく小さく呟いて、銃兎さんの手が私の後頭部に回る。そして、銃兎さんの肩口に顔を押しつけられる形でギュッと抱き締められた。……抱き、えっ?

「分かっているんです、あなたに浮気なんてできるわけがない。大方職場の方に誘われて止むに止まれず、でしょう? 伊弉冉さんのところへ行ったのも、彼があなたに私という恋人がいるのを知っているから」

すごい、秒で見抜かれた。そういう信用だけはされてるんだ……ちょっとだけショック。

「分かっていても、そろそろ我慢の限界なんです」

後頭部に回った手と腰に回った手。両方に力が入って抱き締められたまま、私の背後に倒れる形で私たちはソファに沈んだ。両腕の力が苦しい以外は、銃兎さんが気を使っているのか体重はかかってこない。それでも全く身動きが取れず、相手の顔が見れないまま布の繊維を見つめる。だんだんと不安になってきて、名前を呼ぼうとしたその時。
銃兎さんは、耳元でぽそっと呟いた。


「俺だって、嫉妬くらいする」


それは、小さな男の子が拗ねているみたいなか細さで。
今まで自由だった手を銃兎さんの背中に回して、思いっきり力を入れて抱き締め返した。これでもか! とぎゅうぎゅう力を入れて、肩口にグリグリ顔を押し付けて。

「ごめんなさい。私、考えなしでした」

何がサプライズだ。何がショックだ。断れなかったから好きな人を傷付けていいのか。自己嫌悪がもりもりと湧いて、目頭が熱くなった。泣きたくない。泣きたいのは銃兎さんの方なのに。

「銃兎さん、が、いちばん、すき、です」

普段は全然言えない気持ちを、ちゃんと言葉にする。燃えるように顔中が熱くなって、恥ずかしさで死にたくなった。

「銃兎さんだけ、すき……」

後頭部の手が離れた。

「顔を見せて」
「い、恥ずかしい、です」
「恥ずかしがっているあなたを見たい。ね、お願いします」

ぽそぽそ。弱った風に耳元で言われると今の私では断れない。
意を決して肩口から顔を離して、恐る恐る見上げた先で、いつもの自信たっぷりな銃兎さんが。

「私も愛してますよ、────」

楽しそうに、私の名前を呼んだ。

「あなたを愛しているんです。愛し合っている恋人同士がこんなに密着しているんですから、愛を確かめ合うのは自然な流れですよね」
「えっと、あの……え?」

さっきの弱り切った銃兎さんはいずこに?
ポカンと口を開ける私に対して、今日は手袋をしていない手が私の耳やら唇やらをこしょこしょふにふに。今さらながらソファに一緒に倒れ込んでいるこの状態って、いわゆる押し倒されているアレで。
もしかして、嘘……?
──ピンポーン、ピンポーン。

「あ、だ、誰か来ましたね!」

というか宅配便ですね!

「しっ、静かに。居留守しちゃいましょう」
なんですって?
「銃兎さん、あのですね、」
「私以上に優先するものなんてないでしょう? だって、あなたは私のことが一番好きなんですから」

ここでさっきの言葉拾う!? しー、とか色っぽく言う必要ある!?
もう恥ずかしいとか言ってる場合じゃない。とにかく絵を受け取って、プレゼントして、この変な空気をどうにかしよう。

「今日! お呼びしたのは、銃兎さんにサ、サプライズ、で! プレゼントがあったからで、その、多分、今来たみたいです!」
「なるほど、再配達してもらいましょう」
「なんで!?」

正直に言ったのに話を聞いてもらえないなんて。今までイジワルされてもお願いは聞いてくれたのに。今日のイジワルはいつもの比じゃないってこと?
──ピンポーン、ピンポーン。

「銃兎さん、ちょっと行くだけですから、ね、ね?」
「ちょっとでもあなたと離れたくない」
「なんてこと言うんですか!?」

──ピンポーン、ピンポーン。

「ね、あなたも同じですよね? 今日は私と片時も離れたくない。だって世界で一番愛してるって言いましたし」
「言ってない言ってない」
「そんな悲しいことを言う口はこの口ですか」
「っ、っ!?」

楽しそうに吊り上がった唇に、口を塞がれたその瞬間。テーブルの上のスマホが大きく二度震えた。
あーー!! 再配達のお知らせーー!!






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