追記

その店に足を向けたのは偶然だった。


「いらっしゃいませ」


高いドアベルの音が来客を告げ、ちょうどレジにいたらしい店員がこちらに顔を向ける。営業スマイルにしてはずいぶんと自然な顔をする女だ。水とメニューを手に席へと案内され、アンティーク調の椅子に腰掛ける。水を一口含むとレモンとミントの清涼感が鼻の奥へと抜けていった。知らず知らずに疲れていたのだろう。程よい硬さのクッションに身を預け、クラシックの流れる店内を見渡した。

昼時の忙しい時間も過ぎ、どこか寂しさを感じさせる店内。こんなこじんまりとした喫茶店に入ろうとどうして思ったのか。メニューの上を目が滑る。とりあえずコーヒーでも頼もうかと、ドアベルと同じく古めかしい呼び鈴を鳴らした。やってきたのはさっきと同じ店員だった。


「ブレンドコーヒーを一つ」
「ブレンドコーヒーですね、少々お待ちください」


注文が届くまでの間は手持ち無沙汰になることはなかった。それだけこれからの仕事に不安が付きまとっていたのだろう。自分でも知らない弱音が心の内に潜んでいたのかもしれない。目を伏せて、耳は店内のクラシックを聴き続ける。軽やかで穏やかな曲調、けれども何故だか、


「寂しい曲……どこかで聞いた気がするわ」
「亡き王女のためのパヴァーヌ、ラヴェルの代表曲の一つですよ」


彼女は瞬時に体を正した。どれだけ気を抜いていたのか、喫茶店の店員如きが寄ってきたのも気付かないなんて。彼女がショックを受けている間にも店員はミルクピッチャーにガムシロップ、角砂糖の瓶を並べ、最後に香り立つコーヒーを彼女の前に置いた。


「ラヴェル……名前だけなら知っているわ」
「お客様は物知りですねー。私なんてここで働くまでぜんぜん知らなかったんですよ」
「あら、ではその曲名は誰に教えてもらったの?」
「マスターです。クラシック好きらしくて、曲名だけは覚えろって叱られちゃって」
「興味のない人ならそんなものなんじゃないかしら」
「普通はそうですよね」


彼女の少し壁を作ったような返しにも、店員は微笑んで言葉を返す。どこか楽しそうに、友達か家族にでも向けるような笑みを彼女に向けてくる。それが少しだけ懐かしい気持ちになった。自分にそんな笑みを向けてくれる存在はずっと昔に決別したというのに。ぎこちなく微笑みを浮かべた彼女に、店員は「では」とその場を辞そうとした。が、何を思ったかジッと彼女の顔を見つめて、唐突に言葉を続けた。


「先ほどお客様は寂しい曲と言ってましたが、ある意味そうなのかもしれませんね」
「ある意味?」
「この曲は亡くなった王女のための悲しい葬送曲だって勘違いされる方がいるんですが、本当はラヴェルがある王女の絵を見て、遠い昔に宮廷で楽しく踊っていただろう小さな彼女を想像して書かれた曲なんです」


優雅で繊細な曲。決して哀しみを歌ったものではない、穏やかな曲。


「でも、」


日本人らしい黒い眼が伏せられて、そしてまた戻る。その一瞬にも満たない時の中、ほんの少しの仕草が、彼女の琴線を指で撫でた。


「もう死んでしまった人のことを想像したら、ちょっとくらい寂しい気持ちになりますよね」



***



その店に足を運んだのは久しぶりだった。


「あ、水無さんだ。いらっしゃいませー」
「ひさしぶりね、シエちゃん」


一月ぶりに来た店内は変わらず閑散としていて、出迎える店員も変わらず自然な笑みを浮かべている。何も知らず、何も変わらない。平和な日常を享受する一般市民の一人として、深く暗い闇に触れることなく生きていくのだろう。それを羨ましくもあり、安心する部分もあった。


「またブレンドコーヒーでいいですよね?」
「ええ、お願いするわ」
「かしこまりましたー」


初対面よりも砕けた接客で店の奥に歩いていくシエ。ものの数分で戻ってきたトレイにはいつものコーヒーと、そして小さなお茶請けが一つ。


「甘いもの大丈夫でしたよね?」


スコーンが二つと二種類のジャム。「サービスサービス!」茶目っ気たっぷりで目の前に並べられ、彼女はしばし目を瞬かせた。


「本当にいいのかしら?」
「いいんですよ、私の奢りですから」
「でも、」
「水無さんが食べてくれないと私のカロリーになっちゃうんですよー。それはちょっと困るんです、マジメに」


そう言うと、今度こそシエは店の奥に戻ってしまった。そこまで言われれば素直に受け取るべきだろう。もはや懐かしさすら感じるコーヒーに口を付けて、飲み込む。ここしばらくの間味覚をジャックしていた血の味は、不思議としなかった。

自分の身体に流れるモノと同じ遺伝子を持つ血の味が。歯に残る感触が。引金を無理やり引かせられた指が。首筋に差し込まれた注射の痕が。するりと抜け落ちて、水無怜奈がただの彼女に戻れたような白昼夢。黒いコーヒーが彼女の闇を代わりに吸い取っているかのような、不思議な感覚。


「父さん……」


硬いクッションに背を預ける。店内には王女の寂しげなダンスが響いていた。



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