※岩ちゃんが若年性アルツハイマー


違和感を感じたのは、なんの前触れもないただ普通の日のある時だった。
もともと岩ちゃんは数学が好きなのか、テストもよくできたし数学の成績はとても良かった。俺も岩ちゃんに数学を教えてもらっていた。説明も分かりやすかった。

「じゃあ、この問題を…岩泉くん」

先生に指名された岩ちゃんは「はい」と返事をして、チョークを手に取った。数学の先生は女の人で、よくこうやって突然指名してくる。岩ちゃんはいつも余裕で解くんだけど。

「岩泉くん?」

岩ちゃんの手はチョークを持ったまま止まっていた。すらすらといつもなら解いている岩ちゃんが一文字も書けないなんて、どんな問題だろう、と思って顔を上げると指名されてしまった。
仕方なく岩ちゃんからチョークを受け取り黒板に書かれた問題を読む。でもそれは読めば読むほど俺の頭を混乱させた。いや、問題は全く難しくなかったんだ。それどころか、すごく簡単な基礎問題だった。俺だって解ける問題だった。なんで岩ちゃんが固まったのかが全然分からなかった。だから、簡単すぎて岩ちゃんはびっくりしちゃったのか、と思った。

「岩ちゃん、さっきどうしたの。俺でも出来ちゃったよ〜?」
「簡単だからお前に譲ってやったんだよ、アホ川」
「アホって酷い!」

岩ちゃんはゲラゲラ笑って俺の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。セットが崩れるから止めて!と言うと、セットしてんのかよと笑われた。





「あれ、岩泉、今日も来てないの?」
「病院行くってー。岩ちゃんてば風邪かなぁ。あ、でも馬鹿は風邪引かないって言うよね〜」

あの数学の授業のことなんて忘れた頃だった。しばらくの間岩ちゃんは部活に来なかった。俺はもちろん、他の部員も理由は知らなかった。
今日、昼休みに「及川、俺今日病院行くわ。なんか最近変な感じでさ」と岩ちゃんが言ったので、はぁいと返事をした。そう言えば、変な感じって何だろう、と普段のことを思い出す。何か変だったっけ。






「俺、バレー辞める」

俺、バレー辞める。バレー辞める。ばれーやめる。ばれーやめる。
頭の中でその言葉がぐわんぐわんと響く。思考が追い付かない俺の頭は爆発寸前。

「…なんで」
「続けられねえんだ」
「どう、して…?」
「……、やりたくても、出来ねえから…」

岩ちゃんはぽつりぽつりと短い言葉を紡いだ。
快感と思っていたレシーブも、及川が上げたトスを打つ楽しさも、全部、もう分からないんだ、と。どうせ続けてもバレーを忘れてしまうんだと。

「…どういうこと?」
「俺、病院行ったろ?それで言われたんだよ」

岩ちゃんが口にしたのは最近ちらほら映画とかフィクション小説とかドラマで耳にする、若年性アルツハイマーという病名だった。

「学校も、もう辞める。お前とももう…会えない…っ」
「泣かないで岩ちゃん」
「だって…俺、もう」

俺の前ですら泣く姿を見せなかったあの岩ちゃんがぽろぽろと涙を落とした。俺は考えるより先に身体が動き、岩ちゃんを抱き締めた。

「俺は、どんな岩ちゃんでも好きだから。だから、だから、会えないなんて言わないで」
「…俺は、いつか、全部…全部、忘れる。お前を傷付けたく、ねえ」
「忘れちゃう分、一緒に思い出を作ればいいんだよ。俺、毎日岩ちゃんに会いに行くよ。卒業したら、二人で住もう?毎日美味しいご飯食べてさ」
「お前は、バレー、続けるべき、だろ」
「俺は岩ちゃんと一緒に居たいの…!」

岩ちゃんの涙は止まらなかったけど、岩ちゃんは俺を抱き締め返してくれた。岩ちゃんも俺と一緒に居たいって思っててくれるんだろうか。

「後悔しても、知らねえ…から…っ」

岩ちゃんはバレーも学校も辞めた。俺は会いに行く度、いっぱい話した。夜遅くまで岩ちゃんの部屋で過ごし、帰宅した。

「岩ちゃん、どんなところに住みたい?俺はねぇ、自然いっぱいなところがいいんだぁ」
「及川と一緒ならどこでもいい」
「…もうちょっと考えてよお」
「なぁ」
「何?」
「俺がお前のこと忘れたらさ」

そのときは。
分かってた。岩ちゃんは俺を大事にしてくれていることくらい。自分より俺のことを考えてるくらい。それでも。

「そんな風に言わないで」

俺のことを岩ちゃんが忘れても俺は岩ちゃんと一緒に居たい。岩ちゃんのそばにずっと居たい。岩ちゃんの隣に居ることが俺の幸せなんだから。

「…及川のこと」

忘れたくない。
岩ちゃんは涙を堪えていた。もう、岩ちゃんの言う通りにするしかなかった。だから、せめて俺を忘れてしまうまではずっと傍に居よう。





「ばれー?あれか?何か、手痛くなるやつだろ?」
「…うん」
「お前ばれーしてんのかぁ。

岩ちゃんの記憶は消えていくばかり。マッキーやまっつんのことは大分早く忘れてしまった。高校のことなんて全然覚えていなかった。


高校を卒業してから、岩ちゃんと自然いっぱいなところに住むことにした。俺は働きながら生計を立てることにした。

「岩ちゃん、ただいまー。何してるの?」
「カブトムシいたから」
「昼間採ったの?」
「そう。カッコいいだろ」

岩ちゃんは無邪気に笑った。子供の頃に戻った感じだった。

「及川」
「何?」
「腹減った」
「揚げ出し豆腐売ってたから買ってきたよ。温めるね」
「おう」

ちっぽけだけど幸せな毎日だった。朝起きれば「おはよう」、寝る前は「おやすみ」、帰ってきたら「おかえり」って岩ちゃんが言ってくれるから。それだけで毎日が楽しいんだ。




「ただいまー!岩ちゃ…」
「…初めまして」


とうとうこの日が来てしまったのだ。泣きそうになるのをぐっと堪える。

「えっと……おいかわ、さん…?」
「…俺の名前知ってるの?」

こくん、と頷いた岩ちゃんの手にはアルバムが握られていた。アルバムの表紙には"及川へ"と書いてある。
見せてもらうとそこには俺と岩ちゃんの写真が一冊分貼られていた。最後のページにはメッセージが書いてあった。

「岩、ちゃ……」


岩ちゃんを抱き締め、アルバムを受け取って家を出た。岩ちゃんが昔言った通りに。








俺がお前のことを忘れたら、お前の道を進んでくれ。






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