静かなこの空間、男女二人きりなら間違いが起きてもおかしくはないだろう。大抵、男という生き物は好きでもない女を容易く抱いてしまうものなのだ。
しかし、この男…及川徹はそんな言動は見せなかった。

「ねぇ、岩ちゃーん。ここ、計算ミスしてるよ」

及川は勉強会という形で、岩泉の家に来ていた。女の子の部屋とはお世辞にも言えない殺風景な部屋だ。必要最低限のものしか置かれていない。
バレー部マネージャーの岩泉の部屋には月刊バリボーなどバレーに関係している雑誌が多い。中にはスポーツドリンクの作り方のオリジナルのレシピのメモもあった。

「…ん、悪い」

女の子らしいとは言い難い口調であるが、素直な岩泉。及川はそんな岩泉に密かに恋心を抱いていた。
容姿端麗文武両道…及川は完璧な男だ。天才ではない彼は決して努力を怠る事はなかった。
学校でも街中でも女は振り返る。そして決まって愛想の良い笑顔で手を振る。これで落ちない女は居ない…岩泉を除いて。
岩泉は及川の幼馴染み、云わば腐れ縁という間柄。及川には容赦が無い。女子としては「及川さんと近い」という理由で最初は岩泉を嫌うものの、恋愛対象ではないと思ったのか今現在岩泉の周りには友達が溢れている。

「…岩ちゃん、」

いつか岩ちゃんにも恋人が出来ちゃって、俺とは一緒に居られなくなるのかな。
こんな風にどちらかの家で二人きりになんてなれないだろう。同じ学校の恋人だったら及川の入る隙は無くなる筈だ。

そんなの、イヤだ。


「お、いかわ…?」


岩泉の驚いた顔が目の前にある。押し倒して手を押さえ付けた。いくら岩泉でも及川の力には歯が立たない。
この顔は"怒り"だろうか?長年の付き合いで大体の表情は読み取れる。でも"怒り"とも違う気がする。

「…すき」

想いを告げる事がこんなに恥ずかしいなんて思わなかった。俺に告白してくる女の子たちもこんな気持ちなんだろうか。
沈黙が重たい。ただの幼馴染みだと思っていた男に突然押し倒され、好きだと言われたら引いて当然だ。きっとドン引きされているに違いない。

「……どいて」
「ごめん」

慌てて及川は岩泉の上から退いた。岩泉は及川に背中を向け、振り向くことはなかった。
ねぇ、怒ってる?引いた?俺の事どう思ってるの?好き?嫌い?…聞きたい事が山程あるが、言葉にはならなかった。何も言えない。

「あのさ」

沈黙を破ったのは岩泉だった。

「…わたしも、すき」

及川からは見えないが、恐らく岩泉は今茹で蛸のような顔をしているだろう。岩泉の林檎色に染まった耳が微かにそう語る。

「い゛わ゛ち゛ゃ゛ん゛〜っ」

及川は余りの嬉しさに岩泉に抱き着くと腹に一発拳を入れられる。容赦無い攻撃だが照れ隠しなのだろう。そう思うと、もう腕を離すわけにはいかなくなった。



title by 秋桜



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