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十年ぶりの雪解けに

教頭先生から渡された資料を見て、わたしは一瞬にして十年前の記憶に飛ばされた。
あの日、グラウンドを走る野球部の掛け声、顎を伝う汗。そして激しい胸の痛み。
激しい消失感を知った、中学二年生のあの日。

わたしの通う世宇子中は、田舎の小さな学校だった。生徒数は少ないものの個性豊かな生徒が多く、わたしがマネージャーをしているサッカー部もまた変わった生徒が多かった。


「今年こそフットボールフロンティア出たいよなー」
「その前にまず地区予選で一勝することが先だがな」


GKのポセイドンの言葉に、デメテルが淡々と返す。部員たちの名前は神話の神々を連想させるものが多く、神話からとったあだ名をつけられている。
世宇子中は弱小部で、顧問は歴史担当の定年間近の老教師。練習試合が組まれることも滅多にないし、あったとしても近隣の同じく弱小部。そんなわたしたちにとって、FF大会は憧れの舞台だった。


「じゃあ一勝するために、早く着替えて部室を出る!アフロディは外走りに行ったよ?」


特別知識があるわけでもないわたしに出来ることと言えば、こうして声を掛けることだけ。選手のお尻を叩くことくらい。それでもみんな、それで十分だと言っていつも笑ってくれる。だからわたしももっと頑張らなくちゃいけないと思うのだ。


「じゃあ行って来るか。これ以上いたらごんべに蹴飛ばされそうだ」
「お望みなら今すぐ蹴ってあげるけど?ヘルメス」
「おー怖い怖い」


わざとらしく身震いしたヘルメスを小突くと、見ていたヘラたちが笑った。部室を出る彼らの背中に、いつものように声をかける。


「行ってらっしゃい、頑張って」


口癖のように毎日口にするフレーズに、手を上げたり口角を上げたりとそれぞれの反応を返し、彼らは春の日差しの中に溶けていった。




「……名無し先生、どうかされましたか?」
「あ、いえ何でもありません」
「そうですか。確か、名無し先生はこの方と出身校が同じでしたね。色々と気を使って差し上げるように。くれぐれも失礼のないように、なんといってもフィフスセクターからの派遣ですからね」


資料に乗せられた証明写真は記憶の中より大人びていて、けれど確かにあの頃の面影を残していた。
皺の寄った資料を握り締めながら、わたしはそっと目を伏せる。




アフロディとは、キャプテンとマネージャーという間柄から、他と比べて交流が多かった。多少自己陶酔が激しいところもあるアフロディだけど、監督不在のサッカー部を纏め指導も引き受け、大変ながらもそれを表に出さない。部員たちには見せないようにいつも気を張っているアフロディが、わたしの前でだけ力を抜く。ふにゃっと笑うアフロディが、好きだった。


中学二年の春だったか。あの人が世宇子中にやってきたのは。
影山総帥。サングラスをかけた細身の男性が、サッカー部を訊ねてきたあの日。わたしはわたしの大切なものを失ってしまった。
影山さんが差し出した怪しい水で強くなったみんなは、わたしの声に耳を貸そうとしなかった。怪しい、おかしい、危険だとどれだけ言っても、未知の力に魅入られてしまったアフロディたちはそれを聞き入れない。
変わってしまった仲間たちが悲しかった。けれどそれ以上に、アフロディに言われた言葉が何よりも深く、強くわたしを抉った。


「この力の素晴らしさを理解できないのならば、君はもう不必要だ。そもそも、ごんべが僕たちの役に立ったためしもないしね」


――ごんべが、行ってらっしゃい頑張って、と言ってくれるだろう?それが何よりも僕たちの力になるんだ。


そう言って笑ってくれたアフロディはどこに行ってしまったのだろうか。それとも、始めから嘘だったのか。
アフロディの言葉にその通りだといわんばかりに頷くヘラたち。弱いけれど暖かくて、優しい友人たちはもういなかった。





「久しぶりだね、ごんべ」
「うん、本当に。中学卒業以来か〜」


以前と変わらない長い髪をすっきり一つに纏め、スーツを着こなしたアフロディが微笑む。フィフスセクターからサッカー部の監督として派遣されたアフロディに、校舎を案内しながら当たり障りのない挨拶を交わす。

今の中学サッカー界は、わたしが知っているころと様変わりしてしまった。サッカー界を統治する組織に属しているというアフロディは、一体何をしにこの木戸川中にやってきたのか。


FF大会決勝戦、世宇子中は雷門中に負けた。わたしはそれを観客席の一番後ろからただ眺めていた。その後、憑き物が落ちたような顔で部員たちが謝罪に来て、またマネージャーとして戻ってきて欲しいと言ってくれたけれど。
わたしは頷くことが出来なかった。

彼らが許せなかったんじゃない。アフロディたちにわたしは役立たずだと思われているんじゃないかと思うと、怖くて堪らなかった。

あれから十年の時が経ったけれど、わたしは成長していないらしい。あの時の拒絶が脳裏に過ぎって、アフロディの目を直視出来ず、ここへ来た目的を問いかけることも出来ない。


「……ごんべは変わったね。大人っぽくなった」
「本当?親には全然成長してないってよく言われるんだけど」
「そんなことないさ。凄く綺麗になっていて驚いたよ」
「あははっ。相変わらず口が上手いねえ、…亜風炉くんは」
「……、本音だよ。……僕はサッカー部の監督として呼ばれたけど、ごんべの同僚という形になるからよろしくね」


立ち止まって手を差し出すアフロディに、わたしも足を止めて握り返す。記憶よりも一回り大きくなった手は、それでも変わらず綺麗だった。

それからアフロディとは学校で顔を合わせればとりとめのないことを話したり、時には食事に行くこともあった。まるで十年前、キャプテンとマネージャーとして隣にいたときのような気分。居心地がよかった。
木戸川中のサッカー部は傍から見てもがたがたで、アフロディはそれを立て直すことに尽力しているようだった。ただそれが本当に生徒たちのためを思ってなのか、それとも改革の目である雷門中を潰すためなのかは解らない。それを聞こうとも思わなかった。

どれだけ会話を交わしても、それは表面上にすぎない。わたしは深く追求しないし、アフロディも決して十年前のあの事について触れない。胸の奥に隠したしこりが距離を作っていた。


でも、それでいいのかもしれない。
今のこの関係が、嫌いではなかった。

過去はなかったことには出来ない。忘れることはないだろう。それだけあの事がショックだったのは、わたしがアフロディを、ヘラをデメテルを、みんなを好きだったから。

そして今も好きだから。

少しずつ歩み寄っていければいい。
最近になって、ようやくそう思えるようになった。


「ごんべ、残業かい?」
「ん、あれ亜風炉くん。練習終わったんだ?」


授業のカリキュラムが単純すぎるとダメだしを食らってしまったため残業していると、こんな時間に職員室に電気がついているのを疑問に思ったアフロディがひょっこり顔を出した。


「明日だっけ、サッカー部の試合」
「うん。雷門中とね」
「勝てそう?」
「もちろん勝ちに行くよ、全力でね。けど、もし負けたとしても、それは彼らにとってとても価値のある試合になるはずだ。……十年前の僕たちのように」

アフロディが淹れてくれたコーヒーに口をつけたまま、わたしは硬直した。


「フィフスセクターも、革命も関係ない。僕は、バラバラになってサッカーの楽しさを見失っている彼らに、仲間の素晴らしさとサッカーの楽しさを思い出させてやりたいんだ」


雷門中との試合の後、それに気づいた僕たちみたいにならないように、と続けたアフロディは、コーヒーのカップを両手で包み込み目を伏せる。
痛みに耐えるような表情に、言葉を失った。


「力に飲まれ、僕たちはサッカーを見失った。その結果とても大切なものを失うとも知らずに。気づいたときにはもう遅い。君は僕たちの傍にはいなくなっていた」


アフロディは、きっとずっと自分を責めていた。もしかしたら、当時のチームメイト全員がそうなのかもしれない。わたしが傷ついた分、彼らも自身を責めたて傷ついてきた。
根拠はない。けれどアフロディの顔を見た瞬間、そう思ったのだ。


「木戸川に来て、驚いたよ。まさか君がいるだなんて思ってもみなかった。けど、これはきっと最後のチャンスだって思ったんだ。あんな酷い仕打ちをしておいて身勝手だと思う。でも僕は……ごんべに、傍にいてほしい」


アフロディは静かにそう言った。カップを包む指先は力を込めすぎて赤く染まり、コーヒーの表面が微かにさざめき立つ。


「君が好きだった。再会してまたこうして話せるようになって、もう一度ごんべが好きになったんだ」


勝手なことばかり言って、ごめん。

アフロディはそれきり俯いて、黙り込んでしまった。括られていないサイドの髪が顔を隠してしまって見えないが、泣きそうな顔をしているのだとわたしには解ってしまった。

仲間たちには見せない弱いところを、わたしにだけは唯一見せていたアフロディ。だからわたしは自然と、彼の纏う雰囲気で色々と察するようになっていたから。


「……あれから、十年経つけど、忘れられないの」


コーヒーをデスクに置いて、アフロディに向き直る。
ゆっくりと顔を上げたアフロディは、いつもの自信に満ちた顔ではなく、眉を下げ情けない顔をしていた。一度目を瞑り、深く息を吸う。そうしてようやく、アフロディの目を見た。


「あの頃には戻れない。けど、再会して時々こうやって二人で話すようになったでしょ。そしたらね、やっぱり居心地良いなって思うの」


頭を下げる彼らを口では許したけれど、きっと本当は許していなかった。それはわたしの弱さで、幼さだ。十年の月日はわたしたちを成長させる。いい意味でも悪い意味でも。

元には戻れなくても、いつだってやり直すことができる。二十歳を過ぎて大人になった今だからこそ、そう思えた。


「わたしも亜風炉くん……、アフロディのことが好きだったよ。だけど、今は多分そうじゃない。けどね、きっとまた、アフロディを好きになる気がする。……それじゃダメかな」
「――――っ、ダメな、もんか…!」


ガチャンと音を立てて、アフロディが持っていたはずのカップが割れる。床に飛び散ったカップの破片や黒い液体を躊躇いなく踏みながら、わたしを抱きしめた。


「…ごんべ、ごんべ……っ」


湿った声で何度もわたしの名前を呼ぶ。アフロディ。肩に埋められた頭をそっと撫でながら、わたしは震える声で、明日の大一番に臨む彼にエールを送る。


「アフロディ、……行ってらっしゃい、頑張って」
「……っ、ああ、ああ……頑張る、よ……!」


十年前の決勝戦の日。口に出来ずに胸の奥に仕舞い込んだ言葉を、ようやく届けることが出来た。



2013.03.10
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からくささんへ、素敵な明王ちゃんイラストありがとうございました!