頭文字G
「ヤマトさん、助けて!」
玄関の扉が開くやいなや、彼女が僕の胸に飛びついてきた。
今日も夕食を家でご馳走になる予定で来たんだけど、何?敵?
「え?どうしたの?」
すると名前は僕のベストをギュッと握り締めて潤んだ瞳で僕を見上げた。
なんだ、この美味しい展開は。
「……アイツがいたんです。」
「誰?」
「…黒光りして、すばしっこくて、飛ぶヤツ。」
「ああ、ゴキブ」
「うわー!やめて!言わないで!名前聞いただけで鳥肌立っちゃう!」
なるほどね。
暦は9月になったとはいえ、まだまだ暑い日は続いている。
出ても不思議じゃない。
「キッチンにね、いたの!お醤油取ろうと思って流しの下を開けたらね、いたんです!」
「名前、落ち着いて。」
「もう泣きそう!ヤマトさん、助けて!」
とりあえず事件現場を見に行くことにした。
キッチンに入ると作りかけの状態で放置された料理。
「このへんにいたのかい?」
「そうです、そこです。」
流しの下を屈んで覗いてみる。
いないな。
名前はというと、僕から距離をとってキッチンの入り口付近でヤツを警戒してか目をギョロギョロと動かしながら立っていた。
「今はいないみたいだね。移動したんじゃないかな。」
「うわー!どこ行ったんでしょう。怖くてキッチン入れない……。」
口をポカンと開けて絶望的な顔してる。
やばい、笑いそう。
そこからというものの、名前は本当に可愛かった。
彼女は僕が任務のあった日はいつも料理の手伝いを拒否するのだが(そんなに気を使わなくていいのに!)今日は素直に甘えてきた。
「ヤマトさん、みりんを流しの下から取りたいんですけど、怖くて……ヤツがいつ出てくるかと思うと……横にいてもらえませんか?」
「僕が取るよ。」
「ヤマトさん、食器棚からお茶碗を出したいんですけどね…その、飛び出てこないかなって……。」
「ああ、僕がやるよ。」
そうしたら、名前は言う。
目をうるうるさせて、心から気持ちのこもった声で。
「ヤマトさんがいてくれて本当によかった。ありがとうございます。」
大好きな彼女に頼りにされて感謝されるって悪い気しない。
というか、凄くいい気分。
それに、名前はやたらと周りを警戒していてキョロキョロあたりを見回すもんだから面白い。
「そんなに怖いのかい?」
「昔っからアイツだけは駄目なんです。田舎育ちだし、虫は大丈夫なんですけどね。ヤツは特別。」
「ふーん。あっ、名前!そこ!いる!」
「イヤーー!無理ー!!」
名前は僕に飛びついてきた。
ラッキー。
「ごめん。嘘。」
「えっ?そうなの?ヤマトさん酷いですよ!」
「いや、名前があんまりにも可愛いからつい。」
顔を赤くしてぷりぷり怒ってる。
彼女はわかっていない。
その反応がまた苛めたくなるんだよ。
男ってのは、好きな子ほど苛めたくなるっていうのは本当だ。
その後も彼女をおちょくりつつ、なんとかご飯を作って食べた。
食後のお茶をラグに座って二人で飲んでいるが、彼女の顔は暗い。
「アイツ、姿を現しませんね。」
「もしかして出ていったのかもしれない。」
「……ヤツはそんなに甘くないと思うんです。」
名前は深いため息を吐いた。
「実は昨晩からいるんです。」
「昨日からだったんだ。」
「そう!だから、怖くって全然眠れなかったんですよ!」
世界の終わりとでもいった顔しちゃって。
本当に面白いな。
「ヤマトさん、口元が笑ってます。」
「バレてた?」
「バレバレです。笑い事じゃないんですよ。また眠れない。今日もヤツと一緒に夜を明かさないといけないなんて……。」
彼女は肩を落としてうなだれた。
昨晩は一人で慌てふためいていたんだろうな。
想像したら、またちょっと笑えてしまう。
すると、名前は急に顔を上げて僕を見た。
さも名案が思いついたとでもいった様子で。
なんか、嫌な予感がする……。
「ヤマトさん、泊まっていきませんか?」
やっぱり!
ああ…もう、この子は本当に僕を何だと思っているんだい?
「名前、自分が言ってることの意味わかってる?」
「わかってますよ。布団はもう一組ありますし。ヤマトさんはベッドで寝てもらっていいんで。」
のほほんと答えられた。
いや、全然わかってないから。
「僕と名前の二人で一夜を共に過ごすってことだよ?」
「違いますよ。ヤマトさんと私とアイツの二人と一匹で過ごすんです。」
………………勘弁しておくれ。
「遠慮しておくよ。」
さすがに一晩手を出さない自信はないし。
「そんな……また怖くて一人でビクビクしないといけない……ヤマトさんがいたら心強いのに。」
そんなに縋るような目でお願いされても駄目なものは駄目。
襲われてもいいの?
僕、狼になっちゃうよ?
その時だった。
彼女が座っているとこから近い場所で黒いモノが動いた。
「あっ、名前そこにいる!」
「またまたー、さっきからそればっかりじゃないですか。私もう騙されないんですからね。」
「いや、今度は本当の本当だ。」
「本当に?」
「ほら、そこ、見てごらん。」
彼女は疑った目で僕が指差した方を見た。
すると、名前は飛び跳ねた。
本当に文字通り飛び跳ねた。
「イヤーーー!!!!!」
そして、斜め向かいに座る僕の腕にガチりとしがみついてきた。
それはそれはもう、ガッチリと!
え、え、え!
名前ちょっと待って!!
当ってるから!!!
名前の柔らかな膨らみがギュウギュウと腕に押し当てられる。
僕の脳は瞬く間に温泉宿で偶然見れた彼女の胸を写し出していた。
やっぱり、あの時見た通り大き目だ。
名前は身体のラインが出ない服しか着ないしわかりずらいけど、やっぱり大きい。
それにしても柔らかい。
なんとも幸福なパプニング。
「ヤマトさん!お願い!やっつけて下さい!」
僕の邪な思考は彼女の悲痛な叫びで遮断された。
危ない、危ない。
完璧に自分を見失っていた。
「あっ、飛びましたよ!」
敵はテレビの横の壁に着地した。
「任せて。」
手元にあった雑誌を丸めて握りしめる。
僕は暗部一の使い手と言われてたんだよ。
こんなのお安い御用さ。
―――
「本当にありがとうございました!」
名前は僕に深々と頭を下げた。
「どういたしまして。」
「一撃で仕留めちゃうなんて、ヤマトさん凄いです。カッコよかったです!」
「いや、忍なら誰でもできることさ。」
とは言いつつも、煽てられると嬉しい自分がいる。
「惚れ直しちゃいました。」
ニッコリ笑って言う名前。
慌てふためいたり、怒ったり、笑ったり、彼女は忙しい人だ。
そして、可愛い。
とても、可愛い。
キスしたいな。
そう思い、肩を抱き寄せるため手を伸ばした。
すると、名前はそんな僕に気づかずにスタスタとキッチンまで歩いていってしまった。
「ホッとしたら、喉乾いてることに気付きました。」
「……あ、そう。」
がっくりだ。
「ヤマトさんもお茶のお代わりいります?」
「いや、大丈夫…。」
ゴクゴク喉を鳴らして飲む彼女。
よほど安心して美味しかったのか、ぷはぁと、ビールを飲むみたいに息を漏らしてるし。
「これで今日は安心して一人で眠れます。ほんっとうに助かりました。」
満面の笑みで言う君。
なんだろう。
なんだか、おもしろくない。
だってさっきまでは、僕を頼りきっていたのにさ。
飛びついてきたり、泊まってよ、とか。
退治したら僕は用なし?
僕はキッチンのカウンター越しに立つ名前の目を真っ直ぐに見て言った。
「ご褒美、ないの?」
ちょっとささくれだった僕の心に水を与えて欲しい、そう思った。
僕がいつも何が欲しくて、何で喜ぶか。
さすがに君だってそのぐらいわかるだろう?
名前からのキスが欲しい。
今、凄く。
彼女はグラスを置き、少し考えた。
そして、戸棚をガサゴソと探り出した。
あ、これはわかっていないパターンだ。
名前はキッチンから出て僕に袋を差し出した。
「クルミ、どうぞ持って帰って下さい。」
やっぱり僕の予想通りだ。
犬や猫にあげるご褒美じゃないんだからさ。
思わず小さくため息が出てしまった。
彼女は袋を差し出したまま、僕のことを不思議そうに見ている。
名前、ここまで天然なのはちょっと罪だよ。
僕は彼女に手を伸ばした。
腕を掴んで、グッと引っ張り僕の腕の中に閉じ込めた。
そして、耳元で囁く。
「キスだよ。」
途端に彼女の耳は真っ赤になる。
ああ、そういうことでしたか、とか呟いてる。
今更気付いたって遅いよ。
もう、僕はちょっと苛めたくなってるからね。
彼女の顔を上を向かせて唇を合わせる。
今までは優しいキスを落としてきた。
小鳥がついばむぐらいの。
もうそろそろステップアップしてもいい頃だと思っていたしちょうどいい機会だ。
唇の角度を変え、深く深く口付けてから、舌を彼女の口内にスルリと入り込ませた。
名前の身体がビクリと緊張する。
泊まって?なんて、言ったことを後悔させてあげる。
侵入させた舌で彼女の歯列を丁寧になぞっていく。
そして、探し当てた彼女の舌を絡め取った。
僕のもので彼女の舌を刺激していく。
手に握られていたクルミがボトリと床に落ちた音がした。
「……ん、んん。」
名前からはくぐもった声が漏れた。
欲を言えば、彼女の舌を僕の口内に誘い出して吸い上げたいところだけど、それはまた次回のお楽しみにとっておこう。
あんまり急すぎるとちょっと可哀想だしね。
どちらのものか、わからない唾液が口から零れる。
ああ、ずっとこうして君の中を弄りたかった。
でも、駄目だ。
これ以上してたら、もう我慢できなくなる。
キスだけじゃ済まない。
なんとか理性が働くうちに彼女の唇を開放した。
でも、離す瞬間にペロッと唇を舐めてやった。
君からキスしてくれてたら、こんなに苛めるつもりなかったんだよ。
真っ赤な顔で肩で息をする名前。
思わず笑みが漏れた。
「また、出たらいつでも言って。退治できるまで泊まるよ。名前と僕とヤツで夜を過ごそう。」
どんな反応するかな。
頬を紅潮させた名前は僕から目を反らして口を開いた。
「………遠慮しときます。私と狼とヤツの間違いでしょ?」
そう、その通り。
やっと気付いた?
でも、ここまでで押し留めた僕を褒めて欲しい。
君はきっと、僕に振り回されてるとかいつも思ってるんだろうけど、まったく逆だから。
名前の方がもっとずっと僕を振り回してるんだからね。
おしまい