住まいが遷ったことでそこそこに忙しく日々をこなしていたせいか、あれから特に何事もなかったかのように日常は過ぎ去っていった。

「じゃあ、行ってくるからね」

朝方、いつもより早い時間にキャリーケースを従えて範太は玄関に立ち、こちらを振り返っている。

「知らない人が来てもドア開けないこと」
「……子供扱いしないで」
「そうね、……心配するのはそこじゃねぇか」
「大丈夫だって」
「ホントに〜? ひとりで起きられる? 飯食える? つか顔色悪くね?」

範太が片眉をあげて笑い、誂うようにわたしの頭を撫で回す。先程起きたばかりという証拠たらしめている寝癖が、よりくしゃくしゃになったことだろう。

喉になにかつまった感覚がして小さく咳払いをした。顔色悪いのはメイクをしていないからだと思いたいが、なんだか喉が痛いような気がしている。
そうは言っても範太はこれから数日の間出張に出るのだ。彼はわたしがいなくてもきっとしっかりやっていけるのだろうし、いつだって心配をかけるのはわたしのほう。一緒に暮らすのだって、本来なら範太には特に利点もないだろう。わたしといられることが利点、と思っていてくれたら嬉しいが。

「起きます食べます悪くないです、それより時間は?」
「やっべマジじゃん、遅れちまうわ。それじゃ」

慌てたように範太がそれだけ言い、一瞬キスを交わすと特に急ぐ様子もなくわたしたちの部屋を後にした。手を振り、ドアが閉まるのを見送るとわたしはもうひと眠りするか悩みながらベッドへ戻ろうとした。そこで三半規管の狂う感じがして、その場で壁に手をつく。寒気までしてきた……。これはもしかしなくても、体調が良くないのでは?

とにかくベッドまでゆるりと歩を進め、定位置にしまわれた体温計を手に取る。脇下に挟んだまま台所へ向かい、湯を沸かした。ここまでの部屋の風景も全て範太の趣味だけど、未だに慣れない。
完全に湯が沸き切る前に体温計が電子音を鳴らし、脇下から取り出すと表示された数字がわたしの平熱を余裕で上回っていることがわかる。ちゃんと病人だ。しかもこんなタイミングで。顔色悪くね? から回収までが早すぎでは──ひとりツッコミつつ、まだ沸騰してはいない白湯をこれでいいやとコップに注いでひと口飲んだ。わたしが前住んでた部屋から持ってきたこのコップは、範太のテイストに染まりきったこの部屋で居心地悪そうにしている。

「会社に連絡、しなきゃ」

不真面目な社会人にとって、このときほどテンションの上がる瞬間ったらない。
とはいえ身体はだるいので1日中寝て終わることもわかっていたが。




どれくらいの間寝ていただろう。よく寝たような気もするし、そんなに寝なかったような気さえする。まだ残る身体のだるさと、相変わらず喉に絡みつく痛みとでまだまだ休んでいるべきであることはわかった。
ただ、枕元に置いたスマートフォンだけが振動していることに気がついた。ほっといたら止むかと思ったらなり続けるので、電話かと思って手を伸ばす。画面上に表示されたのは果たして、上鳴くんの名前だった。

最後に会ったときがあれなので出るかどうかを一瞬悩んだが、どうせ風邪が治ろうがしばらくこの部屋にひとりきりなことを考えると誰かの声を聞きたいような気もして気がつけば画面をスワイプしていた。

「……もしもし」

声をつくることもできず、思った以上に自分の声が鼻声なことにびっくりしつつも応答する。

「もしもしみょうじ? なんか声おかしくね?」
「うん……そーかも」
「あ、わり、仕事中だった?」
「……やすんでるから大丈夫」
「そっか、……って、え! 休んでんの? なんで?」

上鳴くんも仕事中じゃないのか、と時計を見やると昼時だった。なるほど休憩かなにかか。そう考えるともっと眠っていたように思える。

「熱があって」

できるだけ言葉少なに状況を伝える。

「マジで!? 大丈夫? ……確かしばらく瀬呂いねぇよな?」

そうだった、上鳴くんは事務所が一緒だから範太が出張だということを本人が伝えずとも知っているのだろう。だから電話してきたのだろうか、と前に上鳴くんから言われたことを思い出す。

「いないけど……大丈夫」
「えぇ〜……なんか買ってく? 仕事終わってからになるけど」
「いいって、心配ないから」
「聞いたからには放っとけねぇって」

さすがはプロヒーロー、見上げた親切心である。ありがたいし確かに今の食糧状況なんかは心許ないが、何を買ってきて貰ったらいいか考えるのも億劫だ。なにせ今日の晩ごはんは適当に仕事帰りに買って済ませようと思っていたのだから。
頼りたいところだが、頼る相手が上鳴くんということだけがただ少しだけ後ろめたい。もう少しゴリ押しできてくれたら、わたしも甘えていいような気がしてしまうけど……って考えてる時点であんなことがあったというのに範太への誠意が足りていない。

「いいよ、上鳴くんも疲れるでしょ」
「いーのっ、聞いといてなんもしねぇんじゃ瀬呂に申し訳立たねーよ」

もしこのことを知ったら範太は多分、上鳴くんを頼ったわたしのほうを叱るだろう。けど、こうなったら上鳴くんはなにを言っても聞かな……いや、聞かないでいて欲しかったのかもしれない。

「わかった、あとでお金渡すね……」

それだけ言って、買ってきて欲しいものはテキストチャットで送ることを約束して電話を切った。
ひとりの部屋に誰かがくること、こんなに沸き立つものなのかと思いながらもうひと眠りしようと目を閉じたのだった。


実際にはわたしがふたたび目を覚ましたのは上鳴くんが来た後だった。
起きたら着信履歴に上鳴くんの名前と、同じく彼からチャットアプリに送られてきていた「寝てるとこ起こすの悪いからドアノブにかけといた!お大事に!」というメッセージを確認して、少し残念なような気持ちになりつつ安心したようでもある。

「ごめんね、今度会った時お金渡すね。ありがとう」とだけ返事をした。顔を見ることはかなわなかったけれど、こうも他人の存在は心を暖かにするものなのか、と思うと同時に範太が早く帰ってきて欲しいと願うばかりだった。誰かと暮らしているとどうしても孤独に弱くなる。




小規模であるが出張任務も昨日終えて、通常業務をこなす日々に戻ってきた。今日は大きなトラブルもなく終わり、更衣室で着替えて帰り支度を済ませたところである。
だが、隣で同じように着替えてた上鳴がこちらを伺っているらしく落ち着かん。用があるなら早く言ってくんねぇかな。もうなまえの終業時刻もとっくに過ぎていて晩飯の準備をしている頃だろうし、できるだけ早く帰りてぇのよ。

「そんじゃ、上鳴お疲れ〜」
「あ、瀬呂」
「何?」

鞄を肩にひっかけながら「もう帰るんですけど?」という表情を崩さずに聞き返す。

「あの……みょうじの具合はどう?」
「具合?」
「風邪、ひいてたみたいだったから」

風邪? ンなことなまえから聞いてねぇな。短い出張の間、電話こそしてないものの連絡は取っていたはずだ。
上鳴の言ってることが本当なら、俺がそれを知らなかったということを上鳴に知れるのが癪なのでできるだけ素知らぬ顔を装う。

「ああ……なまえが心配かけたみたいね。もうだいぶ元気」

俺がそう答えると上鳴はあからさまに安堵した顔をしてみせた。
嘘ではない。俺が帰ったときにはもう元気そうだった。本当にただの軽い風邪だったのだろう。

「んじゃ、また明日ね」
「おう、お疲れ」

上鳴を背に事務所を後にし、愛車へ乗り込んだ。なまえになんて聞こうかと逡巡しながら。





「ただいま」
「おかえり、ご飯できてるよ」
「ん、さんきゅ〜いい匂いするわ」

どちらが早く帰ったとしてもすっかり習慣となっているただいまのキスをして、なまえが纏う匂いから今日の晩飯がなにかを想像するのが趣味みたいなところがある。
エプロンに身を包んだままのなまえの後ろをついてダイニングへ向かえば、概ね匂いから想像した通りの食卓が並んでいる。充分すぎるほどに食欲をそそられ、逸る気持ちで手洗いを済ませると椅子に座った。

──それから、今日あったことなんかを互いに語らいながら彼女の手料理に舌鼓を打つ。飯は早く帰れたほうが作ることになってるけど、今週はどうも任せる感じになりそうなことが申し訳ないような嬉しいような。
食事がひと段落したであろうなまえが側にあった茶をひと口含んだところを合図に、話を本題に移すことにした。

「んで、なまえちゃん」

ん? とこちらを見て首を傾げるなまえはとくに、俺がなにを言い出すかまだ予想できかねていると言ったところだろうか。

「俺に言ってないこと、あるんじゃないの?」

見詰めてくる瞳をこちらからも合わせる。怒っているようには見えないように、あくまでも会話の延長のつもりで……と思っていたものの、なまえの目が明らかに戸惑いの色を孕みだした。下手打ったかなこりゃ。

「えっと……」
「上鳴には話すくらいなら俺にも言ってほしかったな」
「……ごめん」
「あー……悪い、俺も謝らせたい訳じゃなくて」

俯いて詫びるなまえを目の当たりにすると俺も弱い。多分、体調崩していちばん弱っているときにたまたま連絡を寄越したのが俺じゃなくて上鳴だっただけの話だろう。これは予想だが、なまえが自分から真っ先に連絡をした訳でもないだろうし、さすがに恋人のためだけに出張を切り上げることが不可能な俺に気を使ったのであろうことも解る。
よりによって相手がなまえに気があると解りきっている上鳴だったからこんなにモヤついているのだと、自分で理解できている。みっともねぇからそれだけは知られずにいたい。

「上鳴くんからたまたま電話きて……それで」
「ンなこったろうと思った。……あとで他から聞かされる俺の気持ちもわかってね」
「うん……ごめんなさい」
「もういいから。この話は終わり」

終わりにしないで更に責め続けて溜飲を下げようと思えばそれもできた。情けないことに、それで更になまえが俺との暮らしを居心地悪く思うことのほうが怖かった。今だって申し訳無さそうに縮こまって残りの茶をちびちび飲んでる姿を、見ていらんねぇほど怖じ気ついている。



20220915
20220922 加筆



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