ときめいてたまるか

最初に頼んだ酒一杯を飲み切るまでの間に、何組かの男女が上に上がっては降りてくるのを見届けた。こんな状況にありながら初対面である他の客とは会話を想像以上に楽しんでしまった。仕事であることを時折はたと思い出し、偽名を呼んだり名乗ったりするのに声を詰まらせながら。

「こんなんで大丈夫ですか? わたし」

ふと不安がよぎり、人の目を盗んで小声で山崎さんへ問いかける。

「充分さ。今聞けそうなことは聞き出せたから」
「いつの間に……」

同じように小声で、頼もしい返事が返ってくる。山崎さんだって恐らく慣れている場所ではないだろうに、大したものである。

週末でもないからかそう多くはないものの、いろんなカップルがいるもので外見も年の頃も様々だ。なんなら組み合わせも。なにも上へ向かうカップルが男女ひとりずつとは限らないのだな、と緊張で乾いた喉へ味のしない酒を飲み下しながら思った。その中のひと組にこれからなることは、あまり考えないことにして。

「さ、俺たちも行こうか」

山崎さんがまるで、いつもそうしているかのごとくこちらを見て言った。もう頃合い、らしい。聞けそうなことは聞けた、とのことだが決定的な情報を得るにはやはり、上に上がらない訳にはいかないようだ。
本当にこの男はどこにいても浮かない。馴染んでいるというのとはまた別問題だけど、あまりにもそれが自然だったのでわたしもつられて、「うん」と答えた。いつもそうしているみたいに。

それまでに見かけたカップルがそうしていたことに倣い、わたしはカウンターの少し高い椅子を降りるなり山崎さんの手をとってみせる。わずかに震えたその手に気づかないふりをして指を絡め、寄り添うようにして歩いた。これから抱かれますと全方位にアピールしているようで恥ずかしくもあったが、そうでもしていなければ自分を保っていられる気がしないのだ。
わたしが自発的に山崎さんの手を握ったのはそれが初めてのことだった。



「する」訳ではないけどセオリーに従ってシャワールームを互いに借り、早く終わってしまったわたしは山崎さんを待つ形となった。山崎さんが先程マークしていた男が入っていった部屋の隣。覗き穴がついている部屋まであることに、改めてそういう場所にきてしまったことへの緊張がより膨れ上がる。アプリで出会った相手──それが山崎さんだとは知らず──に会いに行く時とは別の種類の、緊張。いまわたしがいるこの部屋にそういう穴がなかったということだけに、とりあえず安堵した。「部屋」とはいえどただ仕切られているというだけで天井は筒抜け。まるで漫画喫茶だ。すでに顔と性癖しか知らない男女の「始まっている」声が聞こえるので仕事とはいえひとりでいたくない気持ちで、早く山崎さんがここへ来てくれることを願った。

「お待たせ」

急いでくれたのか、髪が生乾きのまま山崎さんはわたしの待つ部屋へ現れた。

「それで、どう?」
「すごいとこに来てしまったって感じです」
「そうだろうけどそうじゃねーよ」

バカ正直に感想を答えたら当たり前にツッコミが入ったけど、わかっている。もちろん隣からそれらしいことが聞こえたかどうかだ。まだ、喘ぎ声や肌がぶつかり合う音以外のものは聞こえないので、答える代わりにかぶりを振った。とりあえず一旦は、潜入成功という訳である。

「ありがと、この話受けてくれて。助かった」

狭いせいで、隣に座っているだけで体温がわかるほどの距離感。場所柄、小さい声で山崎さんがそう言ってくれたのだけれどそれでも充分に聞き取れた。

「断る理由、ないですから」

なんとも思っていない風を取り繕ったつもりで発語したものの、耳に届いたわたしの声はふるえていた。山崎さんの耳にも同じように聞こえていないよう願ったものの、無駄な祈りだった。そんなことが解らないくらいなら、そもそもこのひとはこんな仕事を任されたりなんかしない。君は顔にでるから、なんてセリフはもっと出てこない。

「緊張してる?」
「……、いいえ」
「なんだよ、その間。別にここじゃなんもしねえって」

なんかしてくれた方が楽だったかもしれない。もはやいよいよ解らない。

「手だけ、いいですか」
「……手?」
「はい」
「いいよ」


わたしは多分、心細かったのだろうと思う。未知の場所へ、仕事とはいえ足を踏み入れることが。運が悪いとか考えておきながらなんだけど、同行する相手が山崎さんでよかった。様々な醜態を晒し合った者同士だからこそ、素直にそうして甘えてしまうことが出来た。

行き場が落ち着かずに彷徨ったままの右手で、山崎さんが差し出してくれた手を握る。なにかに縋るみたいに。自分のそれより高い温度を感じて、やっと気分がいくらか安らいだ。握った手に力を込めると同じだけの力で返ってくる。それでも山崎さんはそのまま壁に耳をつけ、飽くまでもそのためにここにいるという姿勢を崩さない。この状況に限っては、かえってそのほうが安心していられた。

そうしていつの間にか隣の、男ふたりと女ひとり分の混声合唱はフェイドアウトしていた。聞こえてくる声はやがて会話に変わる。山崎さんの顔つきに幾らか緊張が走り、わたしも注意深く耳を澄ました。
普段から仕事には至って真面目なことをしってはいたけど、そんな彼を目の当たりにすると格好良いと思わずにはいられない。こういった場所だろうとわたしに妙なちょっかいをかけようなんて気配もまるでなくて、わたしだけがそんなことを考えている事実をただただ恥じるばかりだ。



20210624


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