このまま午前十時きっかりにホテルを出たら解散して、わたしは宛もなくデパートの化粧品売り場なんかを適当に歩いて結局何も買わずに帰るんだと思っていた。それがどうして、先程まで一晩共にいたはずのセフレとおててなんか繋いで歩いているのだろう。不自然なほどに無言で。
先程あった「飯でも行くかね」という彼の言葉の通り、食事処が建ち並ぶ街を目指しているらしかった。

「なんか喋ってよ」
「えぇ〜……本日は大変お日柄もよく」
「え、そんな喋ることなかった!?」
「困ってんだよ、雑に振られて」

数多くある世間話の中でもよほど困ったときしか使わないような話題選択に驚いてみせると、わたしの手を握る汗ばんだ手の主──山崎は眉根を寄せて吐き捨てた。

「一応聞いとくけど、さっきの話意味わかってる?」
「そこまでバカだと思う?」
「思ってねーよ、ちょっとしか」
「なにそれ、ほんとにわたしのこと好きなわけ」
「……うわ、ちゃんと解ってんのやめろって」

山崎の眉間のシワが深くなって、居心地悪そうに首元を掻く。これが本当に好きな女にする表情なのだろうか。わたしはこの男に告白をされたっていうのが、微睡みのなかで見た幻のように思えてならない。わたしがそれを解ってなきゃ困るのは山崎のくせして、「解ってんのやめろ」なんて理不尽だ。幻じゃないなら勿論、言わんとするところはわかるけれど。

「っとに調子狂うわ、やっぱ黙っててくんない?」
「……怒ってる?」

さっきから文句しか垂れない山崎の顔を覗き込むと、目が逸らされてこれはもしかして、と流石に自惚れた思考に行き着いた。

「それとも照れてる?」

冗談めかして、バカなフリして訊いてみる。山崎と白昼堂々手を繋いで歩くなんてことは初めてだけど、別にそれ以外のことなら全てしているのにと思ったら可笑しくて、既に笑いそうな顔をしていたと思う。彼がこんなに解りやすく感情を出すのが物珍しく、わたしはすっかり楽しくなってしまっていた。

「あのなァ、俺もう三十二よ?」
「そうなんだ、見えないね」
「なまえは幾つだっけ」
「ん? 若いよ」
「……クソガキ」
「で、照れたの?」
「話を戻さんでいいの」
「照れたんだ、チェリーみたい」

あまりからかっては可哀想だしやめようと良心が叫ぶのに、反応が面白くて笑いをこらえてるようにしかならずに口許を抑えるが口は減らない。なんなら追い討ちまでかけてしまったし、そろそろ本当に怒られるかもしれない──と思ったものの。

「べつにいーよ、チェリーで」
「え」

呆れたみたいに、なにかを諦めたみたいにため息を吐くのが聞こえて慌ててわたしは「ごめん」と口にしかけたのだけど、その顔は機嫌を損ねた風でも子供じみたからかいを続けるわたしに幻滅した風でもなかった。
むしろ、目尻に寄った笑い皺に多幸感すら滲んでいた。

「あんたのそういう顔、見られるんなら」

うわ、って今度はわたしが言う番だった。思わず立ち止まって、そのせいで山崎もつられる形になる。急にそんな素直な態度されて、困るなんてもんじゃない。

「うっわ」
「二度も言うなって」

山崎はわたしを窘め、それから勝ち誇ったように人の悪い笑みを浮かべる。

「なに、照れてんの? かわいいね」

わたしが品のない言い回しをしたのとは全く逆で、しっかりと女の子扱いをするものだから余計に参った。今度こそ本当に黙るしかないみたいだ。不本意ながら。

このあと山崎と朝なのか昼なのかわからない食事を済ませたら、帰るのは昼過ぎになるだろうか。それならひとりになった後で寄りたい用事が今できた。
どうしてかとても、新しい口紅が欲しくなったから。山崎はどんな色が好きかな。



20230206


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