緊張していないといえば嘘になる。けれど女は度胸、ノリとリズムが重要だというのなら流れに身を任せてしまえばいい。
かたらは座敷作法に則り、襖の手前で跪座して一礼し「失礼いたします」と声をかけ引き手を取った。順序を踏まえ襖を開けていくと、三味線の音が鮮明に聞こえてきた。しかし部屋の中に芸妓は一人もおらず、ここで初めてその音を奏でる者が高杉晋助本人なのだと知った。
窓枠に腰を掛け三味線を弾く高杉はこちらに背を向けていて、その顔は見えない。かたらが座敷に上がったことさえ、さも気づかぬ風に演奏を続けていた。

かたらは下座にすわり万斉に託された三味線を構えてみた。昔、義父に連れられ京に滞在していたときに一応の基礎は習ったから弾けないことはない。高杉が奏でる一中節の曲目も知っている。ただ腕に自信がないことは確かで、それでも勢いに乗ってやるしかなかった。
勘所を押さえ、バチで糸を弾き、音を鳴らす。はじめは不調法でも次第に感覚が戻ってくると大分ましになり、高杉の旋律に音が重なっていった。

「まったくもって拙いが……ハジキの音はいい」

高杉の声にかたらはハッと顔を上げた。気づけば音が止んでいた。あまりに緊張して、集中しすぎたせいか曲が終わって放心していたらしい。

「…不調法、大変失礼いたしました」

慌てて三味線を横に置き、頭を下げる。至らない演奏と自失した恥ずかしさから頬が熱くなり、次に顔を上げることができなくなった。畳の目を見つめたまま動けずにいると、ギュ、ギュ、と足音が近づき視界に誰かの爪先が映った。もちろん高杉の足に他ならない。
高杉はゆっくりと片膝をついて、手を伸ばす。その指先がかたらの頭に乗り、夕日色の髪を撫でたかと思えば、耳の後ろにある髪留めに触れた。

「…まだ、こいつを持っていたか」
「!」
「細けェ傷もあるし、欠けていやがる」

言いながら髪留めを外し、解けて垂れ下がったかたらの横髪を指ですくって耳にかけた。その動作にかたらは益々恥ずかしくなって顔を上げられない。高杉はべっ甲で作られた蝶模様の髪留めを確認するように眺めた後、懐に仕舞った。

「こいつァ預かっておく。俺が磨いて直しといてやらァ…まァ、お前との約束みてェなモンだ」
「やく…そく…?」
「だが、タダじゃあ受けねーぜ」

高杉はかたらの顎を掴み上げた。そこでようやく互いの瞳が交わって、かたらは息を呑む。見つめ合って何を思うのか…何を感じるのか…そんな直感が発動する余裕もなくて暇もなかった。突然、高杉の唇が自分のそれに吸いついてきたのだ。

「!!…っ…」

不意の口付けに、かたらは一瞬だけ思考が途切れるも、すぐに相手の胸を押して顔を離した。

「なっ、……なんですかっ…いきなり!…何の説明もなしに…っ」
「うるせェ、騒ぐな…ちょっと黙っとけ」
「ちょ、っ!?」

再び口を塞がれる。今度は顔を固定され抵抗もままならない。片手で頬を押さえ無理やり唇を開かされて、そこに高杉の舌がねじ込まれた。熱い舌先がかたらの口腔内を容赦なく犯していく。逃れたくても、もう片方の手が後頭部を押さえていて動けなかった。

「ん、…っ……は…ぁ…、っ…」

逃げられない、逆らえない、拒めない…否、果たして拒む必要があるのだろうか。むしろ受け入れなければいけない気がするのは何故なのか。
互いの唇が、舌先が、熱を伴い触れ合って、交わる。ただそれだけの行為がまるで…本当に身体を繋げているかような錯覚を起こし、かたらの瞳から涙が溢れた。それは単に生理的なものなのか、それとも過去の潜在的な感覚がよみがえったのか…そんな詮索も憶測も、どうでもよくなって、このまま流されるままに身を委ねていけばいいと…

…いいわけがない!かたらは激しい口付けに息も絶え絶えになりながら、高杉の胸を叩いて抵抗した。

「っ……ん……やっ……だか、らっ、待ってください!わたし、記憶喪失なんですよっ!?あなたのことも憶えて…ないのに…こんな…っ」

頭がぼうっとして声に力が入らない。足りない酸素を補ってもすぐに冷静さを取り戻せそうになかった。

「それはお前の事情であって俺には関係ねェ…この俺を忘れるお前が悪い」

そんな風に言われれば尚更、心が乱れる。忘れたくて忘れたわけじゃないと、分かっていながらわざと意地悪を言うのだ。

「ひどい…あんまりです…っ…せめて、過去のあなたと、わたしの関係を…教えて…ください…」
「さあな、自分で考えろ」

またもや高杉の顔が近づいてきて、かたらはぎゅっと目を瞑った。

「かたら…目を開いて俺を見ろ」

言われて恐る恐る目を開けて高杉を見つめる。自分で考えろと言ったからには、少しは考える時間をくれるらしい。

「あの、…あなたに触れても…いいですか…?」

そう訊けば、高杉は勝手にしろと言わんばかりにフッと鼻を鳴らした。
かたらは意を決して右手を上げ、そっと触れた先は紫黒の艶やかな髪…指で撫でればサラリと揺れて、その少し長めの前髪に隠された包帯が見えた。高杉の左目を覆う包帯…おそらく眼帯代わりに巻いているのだろう。一体どういう経緯で怪我をしたのかと疑問に思いつつ、指の腹で眼窩の縁を辿るように撫でていく。高杉は微動だにしなかった。

「痛み…ますか…?」

そして答えてもくれなかった。だったら勝手に憶測するしかない。

「戦で負った傷は時折…痛みを思い出したように疼くことがあります……わたしの場合、古傷が疼いても当時の痛みを思い出すことさえ…できませんが…」

言いながらかたらの指先は高杉の頬を滑り、鼻筋をなぞって唇に触れた。この唇に与えられた熱い口付け…それは過去に何度も経験したものなのか、それすら分からなくて、やはり何も思い出せなかった。恋人だから特別、というわけにはいかないらしい。心底で仄かに期待していただけに少し心残りになって、かたらは手を離した。すると、その手を高杉が掴み取って言う。

「…この左目をやっちまった時、最初に応急処置を施したのがお前だった」
「わたしが…診たんですか?」
「当時のお前は自分の手には負えないと、悔しがっていたな」
「っ………」
「倒れて次に意識を戻した時には、お前が傍にいた…こうやって…」

やさしくて深い…そんな口付けだった。

「…俺を慰めていた…何度も…何度も…」

吐息まじりに囁き、口付けを繰り返しながら高杉はかたらを畳に押し倒した。ふたり重なるように密着する。その鋭くも熱い眼差しに射貫かれて、かたらはようやく気づいた。高杉の瞳に映る何かを垣間見て、違和感に気づいたのだ。それは当然であって、とても残酷な…

「お前と俺は…」
「もう、やめてください…っ…もう…いいんです、こんなこと…しなくても…」

これ以上その瞳で、愛しい者を見るように見つめないでほしかった。高杉の瞳に映る自分は、自分であって自分ではない…結局は過去の記憶を重ねているだけだ。

「あなたが昔の…わたしの恋人だったとしても…それはもう過去のことです…だから、わたしのことは…」
「忘れろ、とでも?」
「…過去のわたしではなく、今存在しているわたしのことを…忘れてください…」

顔を逸らせば涙がこぼれ落ちていく。やるせない感情に包まれて消えてしまいたいと思った。

「要するにお前はアレか、拗ねてるってワケか……オイ、俺がいつ今存在しているお前を否定した?」
「…この俺を忘れるお前が悪いと、無理やり…」
「確かに俺も拗ねてたが、お前を否定したワケじゃねェ…逆にお前は、お前の過去を知る俺を否定するか?」
「っ…いえ、そんな……」
「お前はお前自身を否定してるに過ぎねェ…記憶を無くした己を不完全なものだと卑下してやがる」
「!……どうして…わかっちゃうんですか…」

取り戻せない過去は気にせず前に進もうと足掻いても、心のどこかで悩みは堂々巡りするばかりで、もはや自分の手に余る難題なのかもしれない。

「お前の思考は大体読める…分かっていると思うが、人間なんざ元から不完全なモンだ…完全無欠な人間はこの世に存在しねェ…不完全ゆえに、意識的に、無意識的にでも足りないものを求め補おうとする、それが人の人たる所以…」

上体を起こし、高杉はかたらから身を離した。

「…お前が取り戻すべきは過去の記憶なんかじゃねェはずだ。前に進みてェなら、まず己の欲を満たすこったな…相当溜まってると見える」
「欲……?」

同じくかたらも姿勢を正して座りなおす。高杉は卓上の酒器を引き寄せると、硝子製の徳利から冷酒をグラスに注いだ。

「もっと視野を広げてみろ。やりてェことをやって、欲しいものを手に入れろ…真に望むすべてを求め続けりゃ、ちったァ前に進むだろーよ」

グイ、と一杯飲んで話しを続ける。

「それと…妙な勘違いをしているようだが、俺たちの関係は恋人なんていうそんな甘っちょろいモンじゃねェ」
「!?」

もう確実だと信じていたことを否定されて、かたらは目を見開いた。

「恋人…じゃない…なら、わたしたちは一体…」
「さあな、自分で考えろ」
「……じゃあ、わたしの恋人は…どこに…」
「………」

高杉は答えない。縋る思いでかたらは胸元から取り出した物を卓上に置いた。ひとつは古惚けたお守り袋、もうひとつは白鞘の短刀だ。

「これは瀕死の重傷を負ったわたしが義父に助けられたとき身につけていた物です。この二つと…今あなたの懐にある蝶の髪留めを入れて三つ、それが過去のわたしの持ち物でした」
「…髪留めは十三になったお前に俺が贈ったモンだ」

手酌しながら高杉が答える。かたらはお守りを手に取って続けた。

「このお守りと同じ物を持っている人が…わたしの恋人だと、ある方に教えてもらいました。…でも、あなたは持っていないんですね…」
「ある方ってェのはヅラ…桂か?」
「いえ、…坂田さんが教えてくれたんです。このお守りは婚約の証だと…そして、その婚約者はわたしの死を切っ掛けに行方不明になったと聞きました」

言い終わると同時にダンッ、とグラスを持つ手を卓に叩きつけた高杉の、その肩が小刻みに震え出す。何が可笑しいのか俯いたまま含み笑いをしていて、かたらは眉を下げ首を傾げた。

「?」
「クックッ…そうきたか、あのバカ…」
「??」
「かたら、お前が勘違いすんのも無理はねェ……つくづく、お前ら兄妹は似た物同士ってワケだ」
「兄妹…?」
「お前、何も知らねェのか……だったら俺が教えてやる」


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