野暮用で出かけたその帰り道、見知った後姿が目に入った。
夕日色の髪は濡れ下がり、着物の袖からは水滴がしたたり落ちる。夏場でもないのに水浴びをする馬鹿がいる筈もなく、どこからどうみても尋常じゃないことは確かだ。

「オイかたら、雨が降ったワケでもねェのに濡れ鼠たァどーいうこった」
「!…晋助……っ」

振り向いた少女は一瞬泣き出しそうに顔を歪めるが、堪えて笑みを作った。そして問いには答えず口を閉ざす。もう少し強引に踏み込まなければ話さないだろう。かたらはいつもそうだ。遠慮して、甘えてこない。

「…まぁいい、兎に角うちに来い。そのままだと体が冷える」

その細い手首を掴もうと伸ばした手は空回る。この指先が触れる前に、両手とも後ろに隠された。それは手を繋ぐ行為が嫌とか恥ずかしいとか、そんな思いからじゃない…ただ単に手に持った何かを隠したい、らしい。

「クク…別にお前も、お前が持ってるモンも取って食うつもりはねーよ…だから来い、いいな」

かたらは視線を下げたまま頷き、大人しく後ろについて来た。
高杉家の門をくぐり、裏庭を通って屋敷の角部屋へと向かう。幸い家の者は外出中だった。黙って女を自室に連れ込んだなどと、どやされる心配もない。
縁側から部屋に上がり、濡れたなりで躊躇うかたらを今度こそ無理やり引っ張って箪笥のある寝室まで連れていく。それから適当に衣服を見繕って渡し、着替えるよう促して襖を閉めた。



「で、何があった?」

小さな卓上を挟んでふたりきり。茶を勧めて落ち着いたところで訊いてみるが、やはり言い出しにくいのか、かたらは顔を曇らせるばかりで埒が明かない。溜息の代わりに視線を逸らすと、軒に吊るしたかたらの着物が視界に入った。
何故濡れたのかと推測しても、川に落ちたか落とされたのか、何か大事な物を落としてそれを探すために川へ入ったか…何にせよ、おそらく大方の原因は銀時に違いないだろう。

「あのね……晋助、ごめんね…っ…」

その言葉に視線を戻せば、かたらは今にも泣き出さんばかりに目に涙を溜めていた。

「何故俺に謝る?」
「………これ…」

コト…と、かたらが卓上に置いた物はべっ甲で作られた蝶模様の髪留めだ。これは今月上旬、十三になったかたらの誕生祝いにと自分が贈った品物だった。その艶ある一級品が無残にも傷だらけになっていて思わず目を見張ってしまった。

「ご、ごめんねっ…わたし、橋の上から、か、川に落としちゃって…いっしょ、けんめい探して…っ、見つけたけど、こんなに…なっちゃってて…う、ぅ…」

しっかり身に着けている物をそうそう落とす筈もない。よってかたらが自ら落としたものとは考えにくい。だとすれば答えは簡単だ。

「オイ泣くな…泣くんじゃねーよ、物が傷ついたくれェで…」
「だって!大事なものだよっ!?大切に使うって、決めてたのにっ…!」
「分かった、分かったから泣くんじゃねェ…俺がまた新しいやつを…」

買ってやると言い切る前にかたらの目が拒否を訴えている。どうやら替えは利かないようだ。

「……分かった、こいつァ俺が直す。だからもう泣くな」
「…晋助、直せるの…?」
「一応、磨き方の知識はある。ちょっと待ってろ、道具取ってくる」

幼い頃、親に連れられて通った刀鍛冶屋の親父は刀以外にも、あらゆる物の修理が得意だった。通う内に様々な物の名称やら性質を勝手に叩き込まれ、その修理やら修復方法を勝手に教え込まれた。その知識と技術は日常生活において時折というか割と役に立っている。

卓上に道具を広げ、かたらが見守る中修復作業に取り掛かる。べっ甲についた複数の傷は幸いにも浅かった。手持ちの紙やすりの番手を見て、まず細目のもので傷を含む周囲を削り、更に重ねて目の細いやすりで削っていく。最後に極細目で全体を擦って、仕上げに研磨剤を布に付け磨き上げると、一瞬で曇った状態から元の艶あるべっ甲の美しさが戻った。

「ほらよ、直っただろ?」
「すごい!嘘みたいっ…元通りになってる…!」
「削ってんだ、元通りとは言わねーよ。また次に傷つけた時ァ今度はちゃんとした職人に直してもらうこったな」

作業で汚れた手をたらいの水で洗い顔を上げれば、さっきまでの泣き顔はどこへやら、かたらはにっこりと笑っていた。

「ううん、また晋助に直してもらう!…ね、頼んでもいい?」
「…まァ、たまに磨くくれェならしてやらんでもねェ…だが、タダじゃあ受けねーぜ」
「お金?」
「バカ、金なんか取るかよ」
「じゃあ…何をすればいいの?」
「さあな、自分で考えてみろ」

小首を傾げるその頬に手を伸ばし、指先を滑らせ夕色の髪を撫でるように梳かすと、かたらはピクンと震えた。横髪を耳にかけてから親指と人差し指で耳朶を弄んでやれば、その頬は赤く染まり潤んだ瞳でこちらをにらんでくる。その表情が既に女の顔になっていることに何とも言えない複雑な思いが過ぎるが、己の本能に従順になれるなら今すぐその色めいた唇を…奪ってしまいたかった。
かたらのすべてを奪いたい…そんな切なる願望が溢れそうになる。いっそのこと溢れてしまえばいい…そう思っても、踏み止まってしまうのは何故なのか…自問自答したところで答えは明白だ。

「ん、っ……晋助、くすぐったい…てば…っ」

何かひとつ求めれば、何れすべてを欲するようになる。何かを奪えば、何かが壊れる。何かを望めば、何かを失う。ただ、今は何も壊したくなくて、失いたくないのかもしれない。それを臆病と称するか、正善とするか、己の真意さえ計り兼ねている。

「大人しくしてろ…折角直してやったんだ、俺がつけてやる」

べっ甲の蝶飾りを留めようとすると、かたらの手に遮られた。

「いい、つけなくていいの、持って帰るから……せっかく晋助が直してくれたのに、ごめんね…」
「別に気にしねーよ…だからお前も気にすんじゃねェ、どうせあのバカが焼き餅やくんだろ?」
「…晋助は本当に何でも分かっちゃうんだね」
「分かりやすいからな…お前も、あのバカも」
「そっか」

つけ損ねた髪留めを汚れのない布に包んで渡す。かたらは嬉しそうに、はにかんだ笑顔を見せながら言った。

「ありがとう、晋助」





その言葉、その声に…心が満たされていく。幸福感に包まれていく。久しく感じることのなかった感情が湧き上がって、思わず目を見開いた。そしてすぐに閉じる。

「………夢、か…」

高杉は小さく呟いて再び目を開けた。上体を起こし両手で顔を覆えば、目蓋の裏には少女の影が残る。光を失った左目が映す残像、それはまぼろし。けれど確かに存在していたもので、記憶にある出来事だった。
少女の夕日色の髪、その顔貌、その仕草、その匂い、ふれた感触、何もかもを憶えている。どれほど忘れようとしても、切り捨てようとしても、心の奥底で眠る存在は決して消えることはなかった。

高杉は枕元に置いた煙草盆から煙管を手に取ると、雁首の火皿に刻みたばこを詰めて火を点けた。ゆっくりと吸いながら立ち上がって窓枠に腰をかける。窓から眺める景色は見渡す限りの水面…ここは江戸の景勝地、洗手池。高杉率いる鬼兵隊は宇宙で一仕事終えた後、一時的に江戸に戻っていた。

かたら

先日、少女の名を耳にしてからというもの、どうも周りが騒がしい。鬼兵隊の総督を差し置いて水面下で何を企んでいるか知らないが、大方の予想はついていた。

はじまりは江戸に潜伏し幕府の動向を探っている古参の仲間からの情報だった。真選組の女隊士…その風貌が夜叉姫にそっくりな上に名前まで一致しているということ…夜叉姫とは鬼兵隊仲間内で使うかたらの愛称であり、かたらの二つ名だが、今や皆その人物の話題で持ち切りであった。

夜叉姫…かたらは高杉の想い人だということは明確な事実で、過去にその想い人と死別したときの高杉を知っている者もいる。ただでさえ左目を失明し重傷なのに愛する者を失った悲しみは精神をも蝕み、一時は目も当てられないほどに荒れていた。だからこそ、夜叉姫が生きているのなら、真選組の女隊士が本当に本物の夜叉姫ならば、どうにかして取り戻せないかと考える者も少なくなかった。

噂話はもちろん皆の意向は既に高杉の耳に入っている(物陰から聞いていた)しかし誰も彼も高杉本人に話を振らなかった。誰一人として高杉のプライベートでデリケートな部分には踏み込んでいかない。それもその筈、隊の長たる高杉に踏み込める者がいたとしたら、そいつはただの命知らずの馬鹿だろう。


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