青々と茂る林に蝉の鳴き声が響いている。
照りつける真夏の陽射しを橋の下でしのぎ、小川のせせらぎに足を浸して、幼い少女がひとり水遊びに興じていた。暗い色柄の浴衣から伸びる白い手足、艶やかな夕日色の髪、そして端整な顔立ち。見目が好いというのに衣装が地味なせいか、どこかちぐはぐな印象さえ受ける。
ふと目と目が合って、先に口を開けたのは少女だった。

「…こんにちは」
「ああ、邪魔をしてしまったな…すまない、少し休ませてくれ」

今更場所を変える気乗りがしない。それにもう既に日陰に腰を据えていた。
少女はしばらくして水辺から上がると、草履を持って近くに座った。少年が一人いたところで警戒心も何も持たないのだろう。それより気になるのは昼間にひとりで遊んでいることだ。このくらいの年齢であれば寺子屋に通う筈で、貧乏人には見えないし寧ろ高貴な生まれでも不思議はない。きっと何か理由があるのだろう…

「お前、兄弟はいないのか?」

そう訊くと、少女は大きな瞳をぱちくりさせて、それから小さく頷いた。

「……ひとりっこなの」
「友達は?」
「…いる、けど…友達は寺子屋で勉強してるから、あまり遊べないの」
「そうか…」
「お兄ちゃんは?お兄ちゃんもひとりっこ…?」
「いや、…下に弟が三人いる。一番下はまだ五歳だ」
「じゃあ、お兄ちゃんが長男なんだね」
「ああ…俺が長男で、一家の大黒柱なんだ。これからは…」
「??」

別段急いでいるわけでもないので、小首を傾げる少女に説明することにした。
母親は数年前に病死して、父親は最近亡くなったこと。家業は剣術道場を営んでいたが、戦の煽りを食って畳んだこと。でも、抜刀術の達人といわれた父はその腕を見込まれ務めに出ていた。だから、家族を養うのに金には困らなかったこと。そう、父が死ぬまでは…

「俺は父の後を継いで、ある商家に奉公に入るためにこの町に来たんだ」
「奉公って何をするの?」
「ご主人の用心棒だ」
「??」

やはり少女は首を傾けて、頭上に疑問符を浮かべている。その仕草があまりにも可愛らしくて、つい一番下の弟を思い出してしまった。

「用心棒というのは、ご主人を護衛する従者のことだ。名のある商家と聞いているから、その富を狙う悪漢が多いのだろう。俺も父と同じく腕は立つ」

言って傍らに置いてある刀を取り、少女に見せた。これは昨年、十五の誕生祝いに父が大枚叩いて買ってくれた刀だった。

「お兄ちゃん、強いんだ。すごいね、正義の味方みたい」
「正義の味方、か……そうなれるといいな、父と同じように…」

少しだけはにかんで笑う少女に、つられて口角が上がってしまった。どこかあたたかくて不思議な感覚に囚われる。目の前の少女に、まだ出会ったばかりだというのに…何か必然的な運命を感じた。

「俺の名は天青だ。お前の名は何と言う?」
「!……かたら」
「かたら…またここに来れば、お前に会えるだろうか?」
「うん、夏のうちはここで涼んでるから…いると思うよ」
「そうか…ではまた会いに来よう」


そんなひとときの幸せを最後に、自分を取り巻く環境は大きく変わっていった。真実はあまりにも残酷で受け入れ難く、引き返すことも許されなかった。定められた道筋に立たされていた。


「かたら…父と母は好きか?」
「うん、大好きだよ。お兄ちゃんは?お父さんとお母さん、好きじゃないの?」
「……好きだった。でも…俺の父と母はもういない」

あんなに尊敬し憧れていた筈の父の顔が思い出せなくなっていた。子煩悩で何より家族を大事にしていたのに、弱きを助け強きを挫く正義感に溢れていた父がまさか…裏で悪事の片棒を担いでいるなんて知りたくもなかった。そして今、自分も同じ道へと進もうとしている。

「お兄ちゃん、どうしたの?…元気ないね」

言って顔を覗き込む少女の、かたらの澄んだ瞳とは反対に、きっと自分の目は淀んでいるのだろう。

「ああ、気分が悪いんだ……もう…ここには来ない」
「?……お兄ちゃん…どうして?…どうして…」


答えられる筈もなかった。


音を立てず、玄関の戸を開閉して息を潜めた。刀は既に抜き身で、あとは標的を討つだけだった。内に入ってしまえばもう戻れない。外には見張りが付いていて、事を終えれば確認しに来るだろう。標的の息の根が止まったかどうかを…

ゆっくりと刃を構えて静止する。
ずっと悩んでも解決策など見つからなかった。自分が逃げる道も、相手を逃がす道も考えた。けれど少年の浅知恵で旨くいくほど裏稼業は甘くはなかった。
手は震えてはいまいか、罪無き人を斬る覚悟はあるか、己を殺し人を殺し悪に染まる道を選ぶのか…脳裏に浮かぶのは三人の弟たち、それと小川で出会った少女かたら…今、まさに手を掛けようとしている標的が、かたらの両親だった。
奉公先の主人に初めて命じられた仕事が度胸試しの殺害で、それがかたらの父と母だと知ってから心底で葛藤してきた。けれど、弟たちの命と生活を守るためにはこうするしかなかった。

まだ陽も暮れぬ明るい部屋、目前に見える光景…黙々と内職に勤しむ夫婦は、かたらたち家族は、今まで幸せだっただろうか。それを壊す自分はこれからどうなるのか…

チキッ、柄を返す音にふたりが振り向いた刹那、ふたつの生命は絶たれた。いとも簡単に…
障子に飛び散る血、その下にふたり折り重なって倒れ、少しずつ畳の血溜まりが拡がっていった。鮮やかな赤はやがて黒く変色するのだろう。あたたかさは消え、やがて冷たくなるのだろう…

「すまない……ごめんなさい……ごめんなさい…」





そう呟いた自分の声を、今でも憶えている。天青はかたらの手紙にそっと手を重ねた。
もしあの時…少女の手を掴み一緒に逃げていたなら…と、繰り返し何度も考えてきた。結局、因果の報いか弟たちを失い、そのまま流されるままに悪業を積み重ね生きてきた。己の士道、道義を曲げて生きてきた。
それを終わらせるには死を受け入れなければならない。いつからか死を望み生きていた。それは自殺ではなく、ある者の手によって死ぬことだった。はじまりを終わらせる…かたらに両親の仇を討たせることで死にたかった。それが天青にとって唯一の望みだった。

「これからの人生を以って償えということか…」

望みは叶わずに潰えた。否、保留と言うべきか…手紙には、記憶を取り戻したのちに会えるその日まで精一杯善行を積むように、と書かれていた。

「また会えるだろうか……」

『お兄ちゃん、強いんだ。すごいね、正義の味方みたい』

今度こそ正しき道を…


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