青畳の匂い…
薄く開いた瞳に光が差す。意識をたぐり寄せると、少しずつ視野がはっきりとしてきた。

「ぅ……ケホッ…コホ…ッ」

急にのどが詰まって、食道に逆流していた胃液を吐き出す。一頻りむせてようやく落ち着いた頃、かたらは自分が畳の上に横たわっていると理解した。
両手両足は紐で縛られており、縄脱けしたくとも体の痺れで指先に力が入らない。かたらは仕方なく、首だけ回し部屋を眺めてみた。

鮮やかな色彩…壁も、襖も、天井も…絢爛豪華な造りである。明らかに普通の座敷ではない。前に義父と見た京の花街、その屋敷の華やかさに似ているような気がした。

「………」

どうして、自分がこんなところに…?
そう疑問を感じた瞬間、かたらは何があったのかを思い出す。

あの時…少年の後に続いて路地裏に入ると、少年の言うとおり一匹の猫が地べたに倒れ伏していた。
毛並みがふわふわの白猫は、苦しそうにヒュウヒュウと口呼吸をしており、すぐさまかたらは猫の容態を診察した。けれど、貧血や脱水症状といった特徴は出ておらず、この時期、熱中症にはまだ早い。
結局、動物は専門外なので専門の動物病院に連れて行こうと、かたらは少年を促したのだ。

少年が猫を胸に抱きあげて、かたらも立ち上がる。
その時まさか、背後から麻酔薬を嗅がされるなどと誰が予想できただろうか。油断していた…不意をつかれた…
腕を振り払い、よろめきながら振り向けば男が二人……かたらの記憶はそこで途切れていた。

「…人攫い、かな…」

と、のんびり呟いている場合ではない。きっと銀時たちが心配して、自分を捜しているだろう。ここがどこであれ、逃げる算段を立てなければ…

「…!……っ」

遠くからやってくる足音と気配を感じ、かたらは襖に目を向ける。
スッと襖が開いたと思ったら、あの具合悪そうだった白猫が軽快に歩いてきて、かたらの目の前に止まった。

「ンニャ〜」

一声鳴いて、ちょこんと座る。次いでその隣に飼い主の、あの少年が座り込んだ。かたらは目を丸くする。

「おねーちゃん、強いんだね。麻酔が効く前に、おじちゃんたちを伸しちゃうんだもん。すごいよ」
「………?」

無意識の防衛本能だろうか。男たちを倒したなんて…まったく覚えていない。

「…覚えてないの?それも仕方ないか…あの麻酔薬、あまり良くないんだよ。あれで死んじゃった女の人もいたから…多分、心臓が弱かったんだと思うけど」

少年は恐ろしい事例をさらりと言う。それに、心毒性を持つ麻酔薬は使用禁止のはずだ。

「きみは…人攫いの片棒を担いでいるの?」
「仕方ないよ、それが僕の仕事だからね」
「…そっか…それじゃ、わたしはこれからどうなるのかな?」
「その前に、ここがどこか訊かないの?訊けばこれからどうなるか、想像つくと思うけど?」
「……ここはどこ?」

かたらが素直に訊くと、少年はにこりと笑みを作る。

「ここは吉原桃源郷…『みなとや』って言う遊女屋だよ」
「吉原…遊女……」

江戸の地下に存在する遊郭…天人の統治下にあり、例え悪行の温床になっていようと警察庁は介入できない。聞いた話では最近、統治者が代わり吉原は花街として開放されているようだ。

「自分がどうなるか、想像ついた?」
「きみ、…一応言っておくけど『売淫御法度』で人身売買は禁止されてるからね」
「そんなのバレなきゃいいんだよ。証拠は消せるし、いくらでも誤魔化せるでしょ」
「そうかなぁ…消せない証拠もあるよ?わたし自身、とか…それに誤魔化せないことだってある」

否定すれば機嫌を損ねるはず…けれど、少年は表情を崩さなかった。

「どうにでもなるし…どうでもよくなるんだよ、おねーちゃんも」
「…どうでもよくなる?」
「そう、後で分かるよ…それにしても、おねーちゃんって変わってる…ヘンだよ」
「へん?」
「普通はパニックになるとこなのに、全然怖がってないんだもん」
「だって…きみは怖くない。それより、猫の具合は良くなったの?」
「ふふっ、僕の猫、演技派なんだ。死んだフリも上手だよ…名前はギン」

少年がギンの頭を撫でると、ギンは「ニャ」と短く鳴いた。真っ白でふわふわで、名前まで誰かさんに似ている…

「ギン…いい名前だね。…ねぇ、きみの名前も教えてもらえる?」
「僕?僕の名前は…」

「オイ、宗次郎!様子を見に行ったんなら報告しろや」

ガッと襖が開き、男と老婆の二人が入ってきた。

「…ごめんよ、ヒゲのおじちゃん」
「もういい、おめェの仕事はここまでだ。向こう行ってろ」
「…うん。…ギン、行こ」

少年は一度だけかたらを見て、そして座敷を出ていった。その後ろをギンがついていく。

「………」

かたらはそれを見送ってから男に視線を移した。
ヒゲのおじちゃんと呼ばれていたように、男の口周りには無精ヒゲが生えている。年は四十路くらいだろう。

「よォ、お嬢ちゃん、久しぶりだなァ。まっさか、江戸で会えるたァ思わなかったよ」
「!………?」
「オイオイ忘れたなんて言うなよォ?十年くれェ前か…イヤ初めて会ったのが十三年前だな、確か…」

記憶喪失のせいで覚えていない…それに、この男が勝手に人違いをしているのかもしれない。

「………誰です?」
「はあァ!?ホントに忘れちまったのかァ?…俺の勘違いか……イヤんなことはねェ。あの白髪のガキ…今はガキじゃねェか…ともかく!あの白髪男と一緒にいたんだ…間違いはねェ」
「!」

銀時のことを知っているなら、過去、この男と自分は何かしらの接点があったのだろう。何があったにしても、悪人に「記憶喪失で…」などと教える義理もない。かたらはだんまりを決め込んだ。

「…ま、覚えてよーが、なかろーが関係ねェ…ここで重要なのは容姿だからなァ、心はいらねェのよ。オイ、バっちゃん仕事だ」
「あいよ〜」

腰の曲がった老婆が前に来て、小さなケースから何かを取り出す。

「!!」

注射器だった。

「嬢ちゃん注射は嫌いかえ?大丈夫、すぐ気持ち良くなるでな〜」
「それは…っ…!」

チクリと腕に痛みが走る。静脈注射は効き目が早い…一体、何の薬物なのか…血が騒ぎ、鳥肌が立つ…意識が揺らいでいく…

「これで湊屋の旦那もさぞ喜ぶだろーよ…俺としちゃ、十三年越しにお役目を果たせて万々歳…あの白髪男にも一泡吹かせてやったし、ザマーミロだな。今頃、必死になって捜してるだろーが、昔のようにはいかねェーさ」

再び、かたらはまどろみに落ちていった。


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