「晋助、あのね…ちょっと訊いてもいい…?」
「?…何だ?」
どうかしたのかと、振り返る高杉はまだ少年の姿だった。また子に過去の思い出を話したせいか最近よく昔の夢を見る。それも高杉とのやりとりばかりだ。
「えっと、ね…その……晋助って好きな人…できたの…?」
「!…んなモンいるか、俺ァ女に現を抜かす暇なんざ持ち合わせちゃいねーよ」
「うそ、だって!…わたし、見たの…見ちゃったんだよっ!?」
「……何を見た?」
「昨日、晋助が女の人と歩いてるの…見た」
「!」
一瞬だけ高杉の目が驚きを表すが、次にはサッと顔を背けてしまう。それを見て何故だか不安になって、どういう訳か焦りみたいな感情が出てくる。
「だって!すごく仲が良さそうで…腕も組んでたし…どこからどう見ても恋人同士って感じだったし…」
「………っ…」
「ほら、やっぱり!…あの人が恋人なんでしょ?晋助の…好きな人なんだよねっ??」
「………」
そうだ、と返されたら…自分はどう受け止めていただろう。
「……違う、アレは恋人なんかじゃねェ」
「え?そ、そう…なの??」
「そうだ、アレはただの親類…仕方なく買出しに付き合ってやっただけだ」
そう聞いて無自覚にホッとした自分がそこにいる。
「大体、俺の好みは…」
「好みは!?」
「…お前に教える義理もねェ」
「そんなっ、気になる!わたし、気になります!!」
「うるせェ…お前こそ何でそんなに興奮気味なんだか」
「え?そう…かな?…なんでだろ…」
一つ大切なものを手に入れておいて…
「焼き餅、か」
「やきもち?そんなっ…わたしが晋助にやきもち焼くなんて…」
「図星か」
「!…ち、違うから!違うからね?焼いてないからねっ!?」
「さあ、どうだかな」
心底で、あともう一つを欲している。
「待って晋助、歩くの早い…!」
「お前が遅い。たまにゃ俺の速度に付いて来い」
それは手を伸ばせば届く距離に在るのに…
「晋助、………わたし……晋助のこと………」
触れることができなくて、触れることが赦されなくて…そして、いつしか遠ざかっていくのだろう。
かたらはそっと目を開けた。
少し微睡むつもりが随分と長い昼寝になってしまった。備え付けのデジタル時計が夕刻を示し、机を見ればすでに夕食の盆が載っている。また子が気を利かして起こさずに置いていったのだろう。部屋の照明も薄暗く調光されていた。その消え入りそうな灯りが夕日のようで…かたらは泣きたくなった。このままでいたら心が折れてしまいそうで怖かった。
「怖ェ夢でも見たか」
ふと、どこか懐かしい、優しい声音が聞こえた。けれど姿は見えない。
「どうした、兎に噛まれた傷が痛むか」
晋助の声…きっとまだ自分は夢の中にいるのだと、かたらは思った。今の高杉が優しい声をかけてくれるとはとても思えなかった。
「夜兎相手に無茶しやがる」
訂正する、ここは夢ではなく現実なのだ。かたらはムッとして上体を起こした。
「…誰がけしかけたと思ってるの」
「嗾けたつもりはねェ」
言って洗面所の角から姿を現した高杉は壁に凭れ、着流しの懐から煙管を取り出す。
「好きにしろと、言ったんでしょ」
「俺が勝手にしろと言おうが言うまいが同じことだ。勝手に解釈して勝手に振る舞う…そんな奴だ」
「っ………」
「食うか食われるか、ただそれだけのこと…」
あのときを思い出すと、恐怖と怒りで体が震える。また子も自分も下手をすれば殺されていたのに、どうしてそんな冷たい言葉を穏やかな声で言えるのだろう。
「…ひとつ、首を狩った」
「!」
唐突な台詞にかたらは耳を疑った。一息、紫煙を燻らせて高杉が続ける。
「徳川定々の首だ」
「!!…っ、…そん…な…」
「まァお前が誰の首か知ったところでどうにもならねーが、一応知らせておこうと思ってな」
「…定々公が……」
かたらの親族を死に追いやったのも、寛政の大獄を命じて吉田松陽を極刑に処したのも、すべての根源は徳川定々だと分かっている。そう分かっていても高杉の復讐、私刑というやり方は間違っている。けして赦されるものでは…
「こいつァ復讐なんて生温いモンじゃねェ…赦しを乞うのは俺か?違う、真に赦しを乞うべきは者は誰か…真に裁かれるべき者は誰か…定々だけで済むなら話は簡単だがな」
「っ…晋助、あなたは…」
「言った筈だ、全てを壊すと」
かたらは口を噤んだ。もうやめて、これ以上誰も傷つけないでと、陳腐な言葉を並べても無駄だろう。ならばどうやって高杉を止める?一体どうすれば…
「どれ程足掻こうと何れ日は沈み、闇に呑まれる」
世界が闇に染まる…それでも、とかたらは口元に笑みを作った。
「晋助……どんなことがあっても、日はまた昇るよ…昇るから……」
ふらつく足に力を入れて立ち上がる。
「だから……私があなたを止めてみせる」
ゆっくりと拳を構えた。
「…その手負いで俺に挑むか」
互いを真正面に見据える。溜息まじりに紫煙を吐き、煙管の吸い口を下げる高杉の目は微動だにしなかった。歯向かう者に呆れている、若しくは憐れんでいるか…
かたらは踏み込み、重心をかけた一撃を繰り出した。
「っ……」
その拳は呆気なく高杉の手に収まった。
「…やめておけ」
耳元で囁く声が妙にやさしくて心が揺れる。惑わされては駄目だと、一旦振り払う。
「っ、…うるさい…!」
敵わなくても立ち向かうしかなかった。無駄な抵抗だとしても、この遣り切れない想いと怒りをどうにかしたかった。目の前の高杉を憎んでも、恨んでも、何の解決にもならないと知りながら抗うしかなかった。
突き出した拳は何度も防がれ、次第に足が縺れて前のめりに倒れ込む…そんなかたらを高杉は己の胸で受け止めた。
「どうして…っ、……どうして…こんな…っ…」
自分の惨めさに泣きたくなって、かたらは高杉を押し倒した。そのまま馬乗りになって拳を振り下ろす。
「…っ……」
振り下ろされた拳は寸で止まった。
「…どうした、殴りてェなら殴れ」
紫黒の髪が頬を滑り左目を覆う包帯が露わになる。右目は真っ直ぐかたらを見つめていた。その無表情な眼差しに、かたらは怯え震えた。
「…やっぱりそう……こんなに近くにいるのに、晋助は私を見ていない……記憶が戻って、やっと会えたのに…っ…」
緩めた指先が包帯に触れる。
「まぼろしじゃないよ…私はここにいる…あなたの目の前にいるんだよ……なのにっ、どうして…私を見てくれないの…?」
「………」
「晋助っ……どうして…私を……」
見てくれないんだろう。昔のように、熱情を込めた瞳で見つめてくれたなら…と願う。けれど、そう望むこと自体が過ちなのだ。自ら赦されない事を望んでいるようで…
押し込めた感情、そこに渦巻く葛藤に胸が苦しくてどうにかなりそうだった。涙だけが静かに零れ落ち、高杉の頬を濡らしていく。
「かたら……お前はまぼろしだ」
ぽつりと、高杉が呟いた。
「この左目が映し出す幻影……お前を失くしても、この目蓋の裏にお前がいた…ずっと見続けていた…長い夢のように…」
遠い過去に想いを馳せて。
「…まぼろしはいつか消えると思っていた…儚く、脆く、消えていく筈だと……だが、いつまでも消えなかった……消えるどころか鮮明になりやがった…」
今、見つめるべきものは何か…すっと高杉の目色が変わる。まるで小さな火をともしたように、瞳の奥が揺らめいた。
「晋助、私を見て……まぼろしじゃなくて…今、ここにいる私を……」
見て、触れて、あなたの手で証明して。私が生きていることを。
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