黒い夢。
薄暗い世界でかたらは大きな桜の木を見ていた。そこに桜色はなく、満開らしき花さえも黒い…黒い桜だった。

かたらの周りには四つの黒い人影がいた。
大きい影が一つ、それより小さい影が三つ。自分の目線で見て、一番小さいのは自分だと分かった。

かたらは桜を見上げ、黒い影たちを見上げていた。
黒く塗りつぶされた人影の表情は見えない。けれど、みんなが笑顔だと、かたらは知っていた。

幸せで、あたたかい気持ち…
きっと、これが家族というものだろう。

びゅうっ

無音の世界に風が吹いて…大きい影が消えた。

びゅうう…っ

確かに聞こえる風の音。
一つ、二つ、また人影が消え…かたらは最後に残った黒い影に手を伸ばした。

びゅううぅぅ…

風の音は強くなり、桜の枝が大きく揺らいだ。

『           』

かたらの言葉は音にならず、届かない。
幸せは一変し、強い悲しみに襲われて、どうすることもできなかった。

伸ばした手も届かない。
愛しい影は舞い狂う黒い花びらと共に消えていく…



あきらめたくなかった。離れたくなかった。

「……どこにも…いかないで…っ」

かたらはやっとの思いで声を絞り出し、もう一度手を伸ばして…

掴まえた。
掴まえることができたのだ、黒い影を…

「どこにも行かないで…っ」

今度はしっかりと声が出る。
もう離すまいと、愛しい影の胸にしがみつき、かたらは泣いた。





やけに風の音がうるさかった。強風がガタガタと雨戸をたたいている。
眠りを妨げられ、土方は灯りをつけた。時刻は午前一時を過ぎた頃、寝付いてから二時間も経っていない。

ガタンッ

どこかの雨戸が外れた音だろうか。確認するべく土方は立ち上がった。
手提灯を持って縁側の廊下に出る。案の定、隅の雨戸が一枚外れていた。

びゅううぅぅ…

春といえど夜風は冷たい。布団のぬくもりが冷めないうちに雨戸を直し、早く自室に戻ろうと思った。

「……!」

けれど、そんな土方を引き止めたのは隣部屋にいるかたらの声だった。

うっ……ん、…ぅう……っ

言葉にならない声が襖障子越しに聞こえた。なにやら、うなされている様子…
土方は入る入らないで悩んだが、かたらの苦しそうな声に耐えられず、思い切って戸を引いた。
室内灯はつけずに手提灯を畳に置いて、かたらの顔をのぞき込む。熱に浮かされた子供のように苦し気な表情…その目尻からは涙がこぼれていた。

「…葉月、しっかりしろ…葉月…っ」
「ん、ぅ……う……ぅ」
「葉月っ…」

土方は掛け布団をめくり肩を揺さぶった。寝間着がはだけていたが、露出した肌に目を奪われている場合ではない。

「っオイ、葉月っ…」
「うぅ、…ど……に、も……い、…な…で…っ」
「!」

小さな唇が震え、発する声が言葉に変わりつつあった。土方は無意識にかたらの頬に手を添える。

「葉月…」
「……どこにも…いかないで…っ」

次は聞き取れる言葉だった。目を覚ますと思い、土方は咄嗟に身を引いた。
途端に細い腕が伸びてくる。

「な…っ!?」

抵抗するすべもなく、かたらが胸に飛び込んできた。

「どこにも行かないで…っ」
「!……っ」

どこにも行かないで?
まるで幼子のような言い回し…失くした過去の夢でも見たのだろうか。か細い声で泣いている…

「…………」

背中に腕を回し、必死にしがみついてくるかたらは夢から覚めたのか、寝惚けているのかも分からない。
できることは一つだけ…今は黙って胸を貸すのか男というものだ。きっと。たぶん。
そう自分に言い聞かせ、土方はかたらの小さな背を抱きしめ返した…





…これが土方側の経緯である。

そして、かたらが異変に気づいたのは一頻り泣いた後…正確に言えば異変でなく、現実に気づいたのが一頻り泣いた後で、もう手遅れ、後の祭りであった。

「…………」

これも夢であってほしいと、かたらは願う。触れ合う肌の熱も、密着する体の鼓動も、夢であれば…

「もう…落ち着いたか?」

……現実だった。

いつもの声と違い、やさしさを含んだ低い声。煙草のにおいが弱いのは、隊服じゃなくて寝間着だからだろう。
かたらは自分が土方の胸で泣いていたという現実を知った。
急に恥じらいが生まれ、いたたまれない気持ちになる。けれど、飛び退こうにも背中にある土方の腕を振り払う訳にもいかず…

「…すみません…副長…」

密着する体勢のまま、謝ることにした。

「こっちこそわりィ、勝手に入っちまった……お前がうなされてたから…」
「…わたし…何か言ってました?寝言とか…」
「寝言っつーか…うわ言だな…」
「何て…言ってましたか…?」

どこにも行かないで

「…さーな、聞き取れなかった……お前は覚えてねーのか?」
「目が覚めて、泣いているうちに…夢の記憶も曖昧になってしまうんです…」
「悪夢でも見たか?」
「…悪夢、とは違うんです……例えるなら、黒く塗りつぶされた昔の記憶…でしょうか」
「黒く塗りつぶされた…?」
「薄暗い世界…そこに存在する人も物も、すべてが黒い影に見えるんです…」

それこそ悪夢のように思えるが、かたらにとっては失くした記憶の手がかりでもあるのだ。

「さっき…夢の中で…桜を見ていたような気がします…」
「……」
「多分…誰かとお花見をしていたんです…それで、真っ黒な桜の木が…風に揺れて、…それから……」

夢の内容を思い出そうとするかたらの肩が震えている。また泣き出してしまいそうだった…
土方はぎゅっと腕に力を込める。

「葉月、もういい…無理して思い出さなくていい」
「……はい…」

記憶喪失という不安定な人格。かたらの不安は計り知れない。黒い記憶に苦しみ、悲しみ…そんな感情を胸に押し込めて生きているのかもしれない。
ならば、作り笑いは不安を隠すためだろうか…と土方は思った。

「……葉月、桜は嫌いか?」
「?……」
「お前が浮かない顔してたから、そう訊いた……お前が無理して笑うから…」

本心を知りたいが、そう軽々しく訊けるものではない。土方が言葉を探していると、かたらが口を開いた。

「桜は好きですよ……好きだった、と言ったほうが正しいのかもしれません。きっと、記憶を失くす前は好きだったんです……でも今は、桜を見ると…切なくなるだけで…」

言葉が途切れ、少しの沈黙…

「…花見、大丈夫か?」
「平気、です……桜がトラウマというわけじゃないですし、真選組のお花見は楽しみです」
「………」
「嘘じゃないですよ?本当に楽しみに…」

言いながら顔を上げたかたらの唇が、土方のそれに触れそうになった。

『!!』

唇と唇が触れる寸前でピタリと止まる。

『っ……』

触れたのは互いの息使いと瞳。このまま口付けをしてもおかしくない雰囲気…

「ごっ、ごめんなさい…っ」

それを打ち消したのはかたらのほうだった。
サッと土方から身を離し、乱れた寝間着の襟元を直す。恥ずかしさから、顔は俯いている。

「…あの、副長…甘えてしまって申し訳ありません…」
「謝るこたァねーよ…少しくらい甘えたってかまわねェ…」

特別扱いはしないと決めていたのに、この体たらく。自分の甘さに土方は息をつく。

「…わたし、こんなふうに男性の胸を借りて泣いたのは初めてです…もちろん、記憶喪失になってから、って意味ですけど…」
「俺だって女に胸で泣かれたのは初めてだ。……で、もう平気か?」

逸らしていた瞳を土方に向けるかたら。手提灯のやわらかい光に照らされたその表情には、熱っぽい女の色が見えた。

「…はい……」
「そうか…ならいい。次はちゃんと寝ろ、俺も寝る……じゃあな…」
「はい、おやすみなさい…」

消え入るような声を背に、土方は部屋を出た。

気づけば風も止んでいる。吹いていれば、火照りを冷ますことができたのに…


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