「あの、月経が来たみたいで……すみません、布団を汚してしまって…」
ある朝方、かたらは申し訳なさそうに頭を下げた。寝台を見れば一部分だけが赤く染まっている。
「何、謝ることはない…私の配慮が足りなかったんだ。君が女性だということを考えれば当然予見できた筈なのにね」
たとえ男方ばかり担当する幕府医官と言えど基礎知識を忘れるとはいかがなものか…葉月は心の内で己を叱咤しながらシーツを剥がし布団を丸めてハッとした。やけに経血の量が多い気がしてかたらに視線を向ける。
「…かたらさん、下腹部の痛みはあるかな?」
「え……はい、…かなり痛いと…思います。でも、月経痛ってこんな感じだったような…」
感覚も曖昧で思い出せないのだろうか。かたらの顔は蒼白でありながら額に油汗が浮いていた…何か尋常でない予感がする。
「念のため、調べてもいいだろうか」
迂闊だった。記憶障害のある状態で妊娠の有無を本人が意識する筈もない。医師としてあらゆる事を想定し、身体の隅々まで調べるべきだったのに、それを怠り見逃してしまったことを葉月は悔やんだ。
診察台に乗ったかたらは更なる痛みに襲われ、そのまま流産した。
「…わたし……妊娠していたんですね…」
「すまなかった、私が至らないばかりに…」
「先生のせいじゃないから…どうか気にしないでください……わたしは大丈夫ですから…」
「っ………」
昔、妻が言った台詞と同じだった。あなたのせいじゃない、気にしないで、私は大丈夫…難産で苦しみ母子共に生命の危機に晒された末、子を失った妻が言った台詞…それを思い出した。
「先生……わたしの赤ちゃん…人の形をしていますか…?」
「……ああ、小さくとも立派に人の姿だ…」
「あの、…見ても…いいですか…?」
葉月は黙って頷き、枕元に盆を持っていった。かたらは目頭に涙を溜め、じっと見つめたままに想いを漏らす。
「っ……ああ、本当に…こんな小さいのに、ちゃんと人の形なんだ……誰の子か分からないけど、わたしの子……ちゃんと生んであげられなくてごめんね…」
「……どんなに小さくとも一度宿った命なら…人として、供養すべきだろう…」
「はい…お墓、作ってあげたいです…」
「…そうだね……」
生まれて死んだ我が子を思い出すと同時に、その悲しみに暮れ自ら命を絶った妻を思い出す。本当は思い出すまでもなく一時も忘れたことなどなかった。何故二人を救えなかったのかと今でも自責の念に駆られる。
「…かたらさん、墓は私が手配しておこう。点滴を打つから君はしばらく安静にしているように、いいね?」
「はい……何から何まで世話になって申し訳ないです…先生には感謝しかありません……わたしの傷が完治したら必ず、先生のお役に立ちたいです…どうか、わたしを先生の御側に置いてやってください」
思いがけないかたらの言葉に葉月はフッと微笑んだ。気持ちは嬉しいが…
「…君には君の役目がある筈だ…きっとあると思う、そうは思わないか?…でも、それを思い出す日が来るまでなら…私の傍にいても構わない、君さえよければ…ね」
「!…先生…ありがとう、ございます…っ」
どうしてそんな約束めいたことを言ってしまったのか自分でも不思議だった。もし亡くした子が生きていればかたらと同じくらいの年齢だったとか、亡き妻が好きだった花の花言葉を知っていたことか、若しくは医学を学びたいというかたらの熱意に心打たれてか…何がそうさせたのか決定打は分からない。ただ、これも縁なのだと葉月は受け入れることにした。
しかし、その日の夕刻に異変は起きた。
発狂したかのようなかたらの悲鳴と騒がしい物音が診療所の静寂を破り、葉月が病室に駆けつけるとかたらは部屋の隅で膝を抱え蹲っていた。
「!!…かたらさん!一体何が…っ…」
倒れた点滴装置、外れかけた窓掛け、机に置いてあった一輪挿しは床に落ち無残に散らばっている。その破片を踏んだらしいかたらの足裏は血まみれで、すぐさまガーゼで止血しようと近寄った葉月にかたらは視線を合わせることなく後ずさった。
「ああぁ…っ…!!」
体を震わせ何かに怯えるような仕草、まるで幻覚を見ているように…もしかしたら記憶が戻りつつあるのかもしれない…
「かたらさん、落ち着いて…私を見るんだ。ここは安全な場所だから安心して…何も怖いことはない、何も怖くない」
「っ、助けてっ…私、まだ…死にたくない…っ…死にたくないよ……約束したのに…約束したのに、こんなところで…死にたくない…っ!!」
かたらは頻りに助けを求めた。おそらく事件の渦中を思い出し、死の恐怖に怯えているのだろう…
「大丈夫だ、君は助かったんだ…君は生きている、今ここに生きている…」
葉月が足の傷口にガーゼを当てると、かたらは驚き目を見開いた。
「っ…!」
「ほら、痛いだろう?生きているからこそ痛みを感じる……そう、生きているからこそ時に辛いときもある…けれど君は乗り越えていくんだ…死にたくないなら、生きていたいなら、どんな困難も乗り越えなければならない…誰かとの約束事があるなら尚のこと、意識をしっかり持つんだ」
やっと瞳が交わったかに思えたが、かたらの虚ろな瞳は葉月を映してはいなかった。
「やく…そく……ぁ、ああ…っ……私、銀兄の……」
急に立ち上がったかたらはふらつきながら歩き出し、止めようとした葉月の手を振り払って病室から廊下に出た。
「かたらさんっ、動いてはいけない!足が…っ!」
「赤ちゃん……私の子はどこ?……ねえ…どこにいったの…?」
診察室で辺りを捜すかたらに、何と声をかけたらいいのか少し迷って…告げた。
「……どこにも行かない…まだここにいるよ」
その保存容器を差し出すと、かたらは大粒の涙を流して泣き叫ぶ。一頻り泣いて落ち着くまで、じっと待つことしかできなくて、葉月は黙ってかたらを見守った。
しばらくして、かたらが心情を吐露する。
「……私の赤ちゃん…どうして死んじゃったんだろう……何で…どうして…」
その台詞も聞いたことがあった。ああ、きっとまた同じことの繰り返しなのだ…目の前のかたらが亡き妻に重なっていく。
「…仕方がなかったんだ……恨むなら私を恨むといい、医師として至らなかった私を…」
昔と同じ言葉を返す。
「違う…違う……私のせいで、この子は…」
「君のせいじゃない、決して君のせいじゃない……そういう…運命だったんだ」
それはそういう運命だった。そう己に言い聞かせ、前に進もうとした。
「違う…違う!!私のせいでこの子は死んだ…私が守れなかったから…っ、私が…私のせいで…!!」
けれど妻は違った。運命だと受け入れることができず、自らの道を閉ざした。
「かたらさん、君のせいじゃないんだよ…君を待っている人もきっと同じことを言う筈だ。今は悲しくとも一緒に寄り添ってくれる人がいれば前に進める。二人ならきっと乗り越えられる…だから、君の帰るべき場所へ…」
かたらは…この少女は妻とは違う。自ら命を絶つことはない、そう信じていても嫌な汗が背中を伝っていく。
「帰る…場所……っ…でも、私…もう……っあああぁ!!」
「かたらさんっ!!」
混乱したままにかたらは裏口から外へと駆け出した。葉月は慌てて後を追い竹林へと入る。夕闇が迫る中、かたらの背中を追いかけて…必死に追いかけて、血の気が引いた。
「っ、そっちは駄目だ!崖がある!!」
その崖から飛び降りて妻が死んだ、それをかたらが知る由もないのに…かたらは知っているかのように、まるで妻の霊魂が乗り移ったかのように崖縁へと向かい進んでいく。そのかたらの速さにとても追いつけない、もう間に合わない…葉月は精一杯叫んだ。
「駄目だ…止まれっ…止まってくれェェェ!!!」
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