始まり


捕まってはいけない。絶対に。
今ここで捕まったら、先に見えるものは地獄しかない。

「ガキィィィ!コラァてめ逃げんじゃねェェェ!!」

後ろから追ってくる怒号に振り向く余裕もなかった。

「ガキの癖に…っなんてぇ速さだっ…!」
「やべぇ!林の奥に入っちまう!」

まだ十も過ぎない少女を男二人が必死に追いかけていた。少女は竹林の先、山道を逸れて樹木の生い茂る山へと駆け登っていく。
太陽はすでに山の裏手に隠れ、辺り一帯は夕闇に包まれていた。視界は暗くなる一方で、地面の柔らかな腐葉土に足がもつれる。それでも少女は機敏に森の奥へと進んでいく。
対して男たちの足取りは重く、一人が樹木の根につまずくと二人そろって仲良く転倒する羽目になった。

「はあっ…はあ…っちくしょ、あんのガキィ…!」
「…どうすんだ?もう前金貰っちまってるのによォ」
「あー…明日になりゃ見つかんだろ。あん年じゃあ森ん中はこえ〜だろうよ」
「ま、ガキひとりでこの山を越えるのは無理だよな」
「明朝、仲間集めてここいら麓を捜索するしかあるめーな」

提灯を持たずして山の中は進めないだろう。男たちは舌打ちして来た道を戻っていった。



「………ふぅ」

チンピラ浪人が去るのを確認して、少女は溜息をついた。
安堵した途端、殴られた左頬がじんじんと疼き熱を伴ってくる。指先で頬をさすり口の端をたどれば、ぬるりと血がついた。口の中も切れたのか変な味がする。右手首を見れば鬱血の痕がついているし、乱暴に引っ張られたせいで肩も痛かった。
ああ何で、こんなことになってしまったのだろう。わたしは何も悪いことはしていないのに。
どうして。



事の発端は、数日前に父と母が死んだことだった。
殺されていた。何で殺されたのか、誰に殺されたのかもわからないし、周りの大人も教えてはくれなかった。温かい手を差し伸べてくれる人もいなかった。
役人が両親の亡骸を荷台に乗せ連れて行ってしまうと、少女は独りになった。
攘夷戦争真っ只中のこのご時世、まだ幼いながらも人の死は何回か見たことはある。でも親しい人、血が繋がった者の死は初めてだった。大切な家族を亡くしたというのに、悲しみを通り越してしまったのか、涙さえ出てこなかった。

その翌日、長屋の戸が乱暴に開けられると少女は浪人にさらわれた。巷で横行している身売りに出されたのだ。
幼いがため性的な品定めはされなかったが、人形のように整った顔立ちと白い肌、夕焼け色の美しい髪が物珍しかったらしく、奉公先は町の一角にある遊郭に決まった。

少女は子供ながらに知っていた。そこがどういうところなのかを。そこに囚われれば一生、籠の中の鳥になる。自由も、幸せも望めずに。
そもそも何故、自分の未来が赤の他人に決められなければならないのだろう。親に身売りされるならまだしも、名も知らぬ浪人に勝手に売られるなんて、許しがたいことだった。

だから少女は逃げた。
遊郭の門前で男たちの隙をついて、全速力で逃げたのだ。



少女は暗闇の中、山道を進み続けた。
もう元いた場所には戻れない。遊郭に囚われるくらいなら死んだほうがマシだと思った。
ならば、できるだけ遠くへ逃げるしかない。眠気と疲労に襲われながらも重い足を引きずって、少しでも前へと進むしかないのだ。



日が昇り、また陰る。
渓流の水を飲み、山葡萄を食べて空腹を満たす。
草履の鼻緒はとうに切れて役立たず、足袋は土で黒く汚れていた。



また日が昇る。
よく晴れた残暑厳しい夏の日差し。
山を下れば、そこには田園が広がっていた。
少女は畦道を進むが、足が思うように動かなくなった。暑さのせいか目の前が霞んで見える。

ああ、蜃気楼。

それにのみ込まれるような感覚がして、少女はゆっくりと身を沈めた。
ひぐらしの鳴き声に混じって誰かの、人の声がきこえたが、それすら遠く霞んでいった。


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